名和長年、

彼のことをご存じであろうか。
時は鎌倉末期、1331年後醍醐天皇は再び鎌倉幕府打倒を企て隠岐に流された。

(1224年、日野資朝、日野俊基らが美濃国人、土岐氏、多治見氏と計らって幕府討伐を計画。事が漏洩し日野資朝は佐渡に流される。これを正中の変という。)

(1331年、再び日野俊基、僧・日観は幕府打倒を企てるが、後醍醐天皇の側近・吉田定房の密告により幕府の知ることとなった。【吉田定房の密告説には様々な説がある】これを元弘の変という。)


その隠岐に流された後醍醐天皇を因幡国・船上山に迎えたのはこの名和長年だ。

名和家は因幡国に土着している土豪だ。
近隣の播磨の国の悪党で有名な赤松氏と同様村上源氏を称している。
村上源氏とは資定王が臣籍降下して源師房と名乗り、村上天皇の側人になるところを祖とする。
律令時代末期のころのことである。

なので名和長年の弟では村上氏を称している者もいた。
この村上氏は水軍技術に長けており、これがのちの戦国時代、
瀬戸内海に於いて毛利水軍の中核を成す、村上海賊衆となるのだ。
名和、村上の一族が後醍醐天皇の隠岐脱出を手引きするのも、当然舟を使ったものであった。

話がそれたが名和長年はこの後醍醐天皇を船上山城に迎える際に、
居館を焼き払い、妻子はみな邪魔になるであろうと自害して果て、
その並々ならぬ勤王の決意を示した。

一説によると、
祖父の代に承久の乱に際して、名和家は朝廷側に加担したが敗れてしまった。
後鳥羽上皇は隠岐に流された際に、名和一族もその供揃えとして従った。
その際に後鳥羽上皇が「我、力足らずしてすまぬ」と名和一族郎党に頭を下げた。
それに感動した名和長年の祖父はいつか朝廷の権力復興に全身全霊を込めて尽くすと誓ったそうだ。

逸話が美談すぎるのでこれは太平記の創作かもしれない。
しかし、名和一族の忠勤並々ならぬことは事実だ。


名和長年はそののち討幕運動に加わり続ける。
各地を転戦し、時に流亡し、建武の新政を見ることができた。
彼は千草忠顕(公家)、結城親光、楠木正成(河内国・悪党)と並び称されて「三木一草の功臣」と称されるにいたった。

しかし、時が流れ、足利尊氏が鎌倉で挙兵し、九州多々良浜で南朝側・菊池武敏が敗れ、湊川で楠木正成が戦死すると、後醍醐天皇は比叡山を経て大和の国吉野に逃れる。

南朝勢力は再び京の奪還を試み、一たびだけ大攻勢をかけた。
京で大市街戦となり、混戦となったが、劣勢となり、撤退の最中、
突進し、引くに引けない新田勢を援護して、名和一族は悉く戦死して果てた。

日本史では山川の教科書によると、名和長年の頻出度は13中2とかであった気がする。