そもそも江戸期における殉死とはどのようなものか、それは君主の死に際して、時に家臣はなかば強制的に殉死を強いられるものであった。君主が黄泉の国へ旅立つ際の露払いとして彼らは同行するのである。けっして乃木希典に代表される自発的なものではなかった。

江戸中期、4代将軍・家綱のころ、慶安の変、承応の変などを契機に、いわゆる「武断政治」から「文治政治」に切り替えられた。その主な具体例として、大名証人(人質)の禁止、末期養子の禁緩和などがあげられるが、同様に殉死の禁止も布令られている。それは将軍に伴い近似している大名の殉死のために、お家断絶、そしてそれに伴う浪人増加と言う悪循環を廃止するためであった。


 明治期に入って乃木希典が明治天皇の崩御を追って殉死した。すでに啓蒙思想が続々と流入してきており、「殉死は封建制度が個人に強制する非人間的行為である」という乃木希典という大変な時代錯誤者にだけでなく、殉死そのもの自体への批判の声も高まっていた。しかし、素敵ではないか、乃木希典は最後まで自分の中の武士としての精神を貫いたのだ。