しかし、江戸時代の朝鮮通信しについて述べたいと思う。

 文禄・慶長に続く長期の出兵により、李氏朝鮮とは国交は断絶していた。しかし、徳川政権になると、柳川一件などややこしい事件を経て国交は回復してきた。その一番の要因は、徳川家が朝鮮に兵を繰り出さなかったことにあるであろう。しかし、国書の偽造など、ある視点から見た宗氏の咎は重いが、しかし、国交正順化に尽力し、鎖国後も四口として対外関係に重きをなした対馬藩の功績は大きい。ちなみに対馬藩は内実2万石程度であったが、貿易利潤を藩の石高とし、20万石と遇された。

 朝鮮通信使は「三韓征伐」などを根拠に朝貢という形式を取らされていた。幕府は諸侯に朝鮮通信使の「来貢」と告げていたし、使節団も国交途絶を恐れてそれを黙認していた節がある。

江戸中期、新井白石による正徳の治がある。彼の業績のひとつとして朝鮮通信使待遇簡素化というのもそうであろう。使節団の接待には1回につき100万両必要とされていたため、改善の余地があったのであろうしかし、この待遇変更に関しては直前になり朝鮮側に通告されたため、国交云々にまで発展する大問題になったという。

加羅諸国の属国化から663年白村江の戦いまで、1510年恒居倭の三浦の乱、1592から97年までの壬申・丁酉の倭乱(朝鮮出兵の朝鮮側の名称)、そして江華島事件から1910年の韓国併合までに至る内政干渉、日本と朝鮮との関係史を見てみると常に朝鮮を侵略し名誉を傷つけてきた。はたして今、韓国の人々が靖国神社参拝問題などに怒るのも当然かもしれない。