日本に於いて、中世どのように戦術が変わって行ったかを考える。契機としては2つある。


一つ目は文永弘安の役である。それぞれ1274年、1282年である。肥大したモンゴル帝国が南宋、高麗をも攻略し、ついには日本に侵略の手を差し延べた。ご存じの通り、日本はこの襲来を撃退するのであるが、勝因はさまざまなことが重なったことにある。しかし、その勝因とは決して日本軍(当時としては日本軍と言う概念はなかったが)の中にはなかった。例えば、「関東評定伝」によれば、その文章の中に「逆風」もしくは「大風雨」とある。今風の言葉に直せば、台風にあったのであろう。それによって文永の役での元軍は全滅した。また弘安の役では、征服した南宋(中国)の軍隊を江南軍として引き連れてきたのだが、この軍隊はいわば強制的に連れてこられわけであり、そのため士気は著しく低く、これが敗因につながったと言われる。また、別に征服した高麗(現在の朝鮮半島)に駐屯する軍隊が反乱を起こした。これを三別抄の乱(1270~73)という。この反乱は鎮圧されてしまったが、このように極東情勢が不安だったため、元は日本攻略に力を注げなかったというなど、様々な要素が含まれている。さて元寇が日本にもたらした戦術の転換とは何であろうか。一般的に元軍は「集団戦闘」と「てつはう」が日本を苦戦に陥らせたものであった。が、この場合は「集団戦闘」のみを取り上げる。それに対して日本の戦闘手段は「一騎討ち」が常識であり、双方、名、生国、出自、また合戦に対する意気込みなどを名乗りあってから戦闘に入る。まだ江戸期に入り前の儒教的道徳思想で体系づけられてない武士道と言ったものが濃厚に存在する時代であった。なので、合戦中でもどこか華やかさを残しつつ戦い、ある程度合戦が進んだら、双方から一番のつわものが出てきて一騎打ちをし、勝敗を決めるといった優雅さがあった。そこに集団戦法と言う近世的な戦術が導入されたわけである。集団戦法とは西洋でも元込め式の小銃が開発されるまではもっとも能率的な戦法とされていた。つまりこの時、日本は、戦法としては「集団戦闘」を目の当たりにし、その強さを多くの犠牲を以て堪能することによって体得し近世化しえたが、そのために原点である「武士道」というものは頽廃するに至った。この集団戦闘は中世、戦国時代に「足軽」という身分の者たちに受け継がれる。以上が、元寇が日本に及ぼしたものである。


続いて、時代を戦国、そして安土桃山時代に向けたい。日本に鉄砲が伝来したのは種子島に1543年、領主・種子島時堯が2丁買い取ったのが始まりだとされる。それ以前に、倭寇の王直が松浦や平戸に持ち込んだという説もあるが一般的でない。鉄砲が伝来することによって日本人の戦闘がどのようにして変わったか。それは城がどこに位置するかに着目すると一目瞭然である。古来、城郭と言うものは、険阻な山岳に築くのが常識であった。「天然の要害」という言葉をよく目にするであろう。しかし、鉄砲が伝来することによって、それを俄かに一変しなければならなくなった。それはなぜかというと、鉄砲を打ちおろすときに、火縄銃というものは先込め式なので、下に向けて撃つときに、撃つ前に弾が転がり落ちてしまう。なので、山城から平山城を経て平城へと城郭は変化していったのだ。変化したのは当然城郭だけではない。合戦の時の兵員の配置も変わってくる。当初戦国大名の多くは、鉄砲兵を弓隊に混ぜて運用した。しかし、織田信長が鉄砲の一斉射撃による効能を発見したことによって日本の戦史は大きく変わった。長篠の戦(1575)をご存じであろうか。これは火縄銃の丁数は1000から3000と諸説あるが、とにかく火器の優越性を示した重要な戦いであっただろう。この火縄銃の一斉射撃の登場に陣形と言うものが大きく変化した。鉄砲が登場した当初は密集して突撃してくる足軽などに至近距離で発砲して、発砲した直後に、戦闘力をなくした鉄砲兵は退避行動を取る。しかし、次第にどの軍勢も鉄砲隊と言うものを有するので、合戦の突撃前に鉄砲の打ち合いをしてから突撃をするという形に変化していった。余談であるが、織田信長は鉄砲の集団使用を発見した。その発見とは西洋のそれよりも一世紀ほど早かったと言われている。加えて織田信長は「馬防柵」と「3段撃ち」という2つを用いて、火縄銃が、弾を撃った直後に戦闘力をなくす欠点を克服した。以降の戦史において、野戦築城では馬防柵は常識となり、鉄砲の一斉射撃に於いて、3段撃ちは常識となった。以上が鉄砲がもたらした戦術の変化である。