海外文化がいつ流入したか考える。


明治初期の日本に求めてみたい。江戸後期、幕末と呼ばれる時代では、「攘夷」という言葉が大流行していた。「神州を洋夷で汚すな、海外のものをことごとく拒否しろ」という考え方である。幕末における開明派と呼ばれる人物は、幕府の重臣に於いてはわずかに堀田正睦、勝海舟、他に重臣ではないにしろ福沢諭吉など、指を折るほどしか存在しなかった。攘夷としては長州藩がその代表格であり、英国公使館襲撃事件や、下関戦争などを起こしている。同様、雄藩である土佐藩の下士(郷士とも)らはそろって攘夷派であり、脱藩して同様な攘夷活動を展開した。生麦事件でもわかるように、薩摩藩でも薩英戦争までは似たような認識を持っていた。明治維新を成し遂げた薩長新政府は、しかし、富国強兵の必要性という側面も大きく働いたが、以降大きく西洋化を図った。西洋軍備を整えることによって、鎖国によって遅れた3世紀分の近代化をわずか数十年で遂げてしまった。(しかし鎖国に関しては日本独自の文化を育てたという面においては大きく評価してよいであろう。) さらには、準列強であったロシアを1904年に破るになるまで至るが、一般市民は感情の面では西洋化を受け入れられないという事例が幾つもあった。例えば、明治初期に於いて脱刀令にも関わらず腰の大小を外さずに闊歩していた旧士族や、散発令にもかかわらず髷を残し続けた人もいた。同様に、明治時代には、日本に於いて初めて「国家」という概念が生まれた。江戸時代を通して、「藩」もしくは、「分国」という単位でしか国民性を自認できなかった日本人は、近代的な中央集権国家の成立によって初めて「国家」を自認するに至る。しかし、藩閥意識というものは明治初期に於いては根深く存在した。陸の長州、海の薩摩と言う言葉をよく耳にするであろう、これは藩閥意識、つまり旧時代の遺構の典型的な一例であったと言ってよい。このように山県有朋や大久保利通の時代に於いては根深く存在した藩閥意識は、しかし、世代を一つ経ることによって非常に薄らいでいるようである。(もっとも大久保個人としては、藩閥をまったくと言っていいほど意識していなかったが。) 明治維新を子供のころに迎えた、もしくは明治維新以降に生まれた人たちは、この藩閥意識というものが理解できなかった。しかし、大正や昭和期に入るに従ってそれ以上に深刻な閥族が生まれてくるに至ってしまうのであるが。以上が一つ目の具体例である。



 二つ目は飛鳥時代のころの日本である。海外文化であった、仏教が中国から伝来した。(仏教の伝来に関しては諸説ある。たとえば司馬達等が個人的に崇拝していたのを伝来とするなら522年であるが、正式な伝来は538年、もしくは552年であるとされている。) 日本には古来より、「神道」というものが存在する。万物に精霊が宿る、アニミズムと言われる思想である。そもそも、この時期の純粋な神道、つまり神仏混淆される前の神道とは、非常に素朴なものであった。具体例を挙げてみよう。例えば太古より存在する大きな森があったとする。その森には森の神がいてその森を守護している。そこには祭壇のようなものは存在せず、直截地に額づき、神託を受ける。というものであった。これに対して、仏教が注入される。仏教とは、神道の神が精神に、つまり目に見えないものを崇める神道に対して、仏教と言うのは具体的には仏像を崇める。鎌倉の大仏や東大寺大仏殿の大仏を想像していただければ易いが、非常に荘厳であり、多くの人が神道より仏教のほうが頼り甲斐があるとそちらに帰依することとなった。しかし、神道が常識とされている日本人の中では当然受け入れられない信心深い人も出てくる。ここでそれが起因して崇仏論争というものに発展するのである。これは時期的に天皇の後継問題も深刻に絡んでくるのであるが、(というより、行われている論争自体の場所ではそちらがメインであるのだが)、神道を司る、神祇の家(中臣や忌部など)と仏教を奉る渡来人との抗争とも捉えることができるであろう。一般的には崇仏論争は蘇我氏(崇仏派)と物部氏(廃仏派)との抗争と言われており、結果的には三蔵を領有した蘇我氏が勝利を収めて、以降日本に於いては大いに仏教は振興するに至った。このように仏教は準国教として発展していく。594年の仏法興隆の詔や646年の大化の薄葬令からも窺うことができる。(この大化の薄葬令には巨大な古墳の造営に費用がかかりすぎるという2次的側面を有していたが。) このようにして時代が下り仏教が常識となるにつれて、神道の信仰者も仏教を容認するように至った。日本では神仏混淆という神道と仏教が当然の如く混ざって存在していた。この思考法は、神ですら仏の仮の姿(権現)であるという考えであり、次々に神に菩薩号などが与えられて行った。つまり崇仏論争に起因する優位性としては「仏教>神道」であった。このような優位性(神道からしたら劣等性)が存在したために、最初は忌避していたはずの神道側もこれを積極的に利用する人物すら現れたのだ。具体例を挙げてみよう。役小角(えんのおずぬ)という人物をご存じであろうか。一般的には修験道の開祖と言われている。修験道とは神道の山岳信仰を仏教に取り入れ直したもので清仏混淆の著名なものの一つと言ってよい。さて、とにかく修験道は仏教のものである。しかし役小角はその出自を調べてみると加茂一族の出身である。加茂一族(鴨とも)は現在の京都で栄え、三輪一族から別れた地祇系氏族である。現在の京都に鴨川、下鴨、上加茂と言った地名が多く残っているといえば納得である。さて、宗族の三輪一族であるが、奈良県にある大神神社というものを当然ご存じであろう。大神と書いて「おおみわ」と読ませるところからわかるように、三輪一族とは三輪山という山岳信仰をしていた、渡来人が来る前の純日本人であった。つまりその支族であった加茂氏も当然神道系であることが分かる。ちなみに余談であるが大体56世紀ごろのこのような三輪氏や加茂氏といった神道系に対して、仏教系として存在したのが葛城氏などである。さて役小角に話を戻す。彼は神道系の加茂氏の出身であった。しかし、積極的に仏教を取り入れることによって、仏教の優位性を得て、「(神道の)鬼神(守り神)をこき使った」などといった話が「日本霊異記」などに載っている。この「日本霊異記」に記載されているエピソードの真偽はともかく、このようにして、日本人の中の舶来に起因する無差別な仏教に対する偏見とは消滅していった。これが2つ目の具体例である。