そもそも日本は中国とオランダとは公式に貿易をしていたのは周知の事実であろう。
余談ながら鎖国時には四口と言った海外貿易の窓口があり
松前口→蝦夷、対馬口→朝鮮、薩摩口→琉球、長崎口→中国、オランダ
こういった感じになっており、つまり薩摩藩の琉球との密貿易などは公然の秘密となっていたのだ。
話がそれたが、長崎出島にはオランダ人居住区があり、甲比丹(カピタン)といった商館長が常在し、1年に一度、「オランダ風説書」なるものを江戸幕府に献上していた。
これは諸外国の情勢を知らせるものである。
アヘン戦争(1840-42)を契機に幕府は諸外国の情勢を詳細に知るためにオランダ風説書に加えて「別段風説書」という詳細なレポートを提出させている。
オランダ風説書、別段風説書、以上のことを知らない人々は「幕末の日本は鎖国のために世界情勢に昏かった」という頓珍漢な論を成立させてしまいがちである。
ご理解いただけたであろうか。
加えて、実は江戸幕府は世界情勢に昏くなかったという事実をまた一つ挙げたい。
兎も角、この正式に国交のあるオランダ軍艦が突如長崎に現れた。
オランダの要求は、世界に対する日本の開国と、親書の提出であった。
幕府はびっくりしたが「開国は断固拒否」「親書」のみ受諾という措置を取った。
そして実はその親書の内容には「アメリカが軍艦を率いて来航するであろう」
ということを述べている。これは46年のビッドル来航のことを示している。
同様に、52年の別段風説書に「ペリー率いる艦隊4隻が翌月に江戸に訪れるだろう」という見解を吐露している。
大老だか老中だったか時の権力者・阿部正弘はこのことを秘匿したが、
その間の対応策として幕府は「海防掛」を再設している。
海防が真剣に検討されるようになったのはこのためであり、ここに幕府の上層部の意識の変化の機微を感じ取らなければならない。
(海防論自体は、しかし、もっと古くから唱えられていた。)
しかし、ご存じの通り幕府の軍事力は鎖国のために300年前の封建制度のままであり、加えて財政が逼迫している幕府として、莫大な金のかかる海防政策はあまり実現しなかった。
それでも幕府は努力し、伊豆韮山に反射炉を作り、大砲製作を盛んにさせ、江川英龍、高島秋帆らを起用した。
ここに幕府の努力を認め、幕府は努力を怠っていた、無知だったという認識を改めなければならない。
事実、ペリー提督と幕府側の交渉も実に見事なものであった。