ペリー来航の際に、蒸気船を見た幕府はあわてふためき、そのために

「幕府は弱腰外交であった」「ペリーの武力に屈して開国した」と一般では言われている。みなさんも同じようなイメージがあるのではないか。

はっきりといえばそうではない。

まず、最初に認識していただきたいことは「日米和親条約」とは貿易を開始するための条約ではない。

それは「日米修好通商条約」である。

つまり幕府はペリー提督が恫喝し、要求した「開国」と「貿易」に関して「貿易」に関しては見事に撥ね退けたのである。

日米和親条約の全貌を知るには林(あきら)という人物を知らなければならないので説明しよう。

彼は幕末期における林家の当主である。(初代は林羅山、藤原惺窩の推薦により幕府に仕え儒学を指南)

林家は代々、大学頭を世襲するために「林大学頭」ともいい、号を復斎ともいう。

林復斎の、ペリー提督との問答は実に堂々としていた。

ペリー提督は(武力を背景としているが)、名目上は渡来の理由は人命救助、船々救助のための国交であると述べ、加えて貿易は双方の国益のためと説いた。

しかし、林復斎は

「人命救助、船々救助の望みが果たされて国交が開かれたら、使節としての眼目は立つはずだ、交易は利益の論であり無理にでも実現させなければならない事項ではない」と

人命救助を強引に振りかざしたペリーの理論を逆手にとって見事に撥ね退けた。


ここでペリーが引き下がった理由としては、目標が日本だけでなかったことが挙げられるであろう。

日米和親条約締結後、その足でペリーは琉球に向かい、「米琉修好通商条約」を締結している。

同時に日本の10倍もの規模を催す中国の市場のほうがこの時には魅力的であったのだろう。


兎も角、幕府は堂々たる態度で外交に臨んだ。

日米和親条約はそれでもご存じの通り不平等条約であり、アメリカは「片務的最恵国待遇」である。

しかし、卑屈であると思われがちである幕府の外交政策も、ある程度は議論を尽くし、文明と強大な武力を背景にした列強のアメリカに対して立ち向かい、ある程度日本側に有利に導いたという事実を知れば、考えが改まるのではないかと思われる。