土佐とはもともと流刑地のひとつであった。
(他に隠岐、佐渡、壱岐など)
具体例として
・源希義(源頼朝弟、平治の乱で流配、以仁王の令旨により土佐で蜂起、敗死)
・紀夏井(応天門の変の首謀者として逮捕、流配)
・藤原師長(保元の乱で流配)
・土御門天皇(承久の乱で自ら罪を乞い、流配)
・尊良親王(後醍醐天皇の子、元弘の変で流配。足利尊氏と戦い新田義顕と越前で敗死)
(余談1:『たかなが』『たかよし』とも読む。
「良」を『なが』と読むか『よし』と読むかは戦前から学者の中で意見が分かれている。
現在では一般的に『よし』と読む。)
(余談2:新田義顕、新田義貞の子、越後守を拝受。
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藤原藤房(建武維新の功臣、諫言するも受け入れられず自ら土佐へ落ちたと言われている)
鎌倉期には北条一門が守護となるが、鎌倉幕府滅亡後、細川家が守護に任命される。
(細川幽斎は肥後細川家、細川晴元は細川京兆家、土佐守の細川家は阿波細川家という)
しかし戦国の動乱期となると、土佐七雄が割拠し、
本山氏、安芸氏、一条氏、吉良氏、津野氏、長宗我部氏、香宗我部氏、が拮抗しその中から長宗我部氏が国親の代に台頭し、元親が四国を統一。
然し豊臣秀吉の四国平定で土佐一国となり、関ヶ原の戦いで子の盛親が西軍に加担したため滅亡し、代わって山内家が移封されるにいたった。
長宗我部氏はもともと足利家の一族であり、南北朝の争乱の際に北朝側として四国にはいり、南朝勢力と戦った。
初めは曾加部氏を名乗ったが、隣の香美郡にも曾加部氏がいたため、それぞれ長岡郡と香美郡から一字を取り長宗我部、香宗我部となった。
山内家は幕末まで存続するのは皆さんも御存じであろう。