元綱数道 / 幕末の蒸気船物語


卒論のために読了。戊辰戦争に従軍した軍艦が委細にわたって述べられている。

また四国連合艦隊下関砲撃事件に参加した船舶や、ペリー来航の際の艦隊の編成などにも触れているけど、

自分は日本史以外かなりさっぱりなので全く理解できなかった。


また技術的な用語解説もあるので無知な自分はとても助かりました。


歴史余話

落合弘樹 / 秩禄処分

落合弘樹 / 明治国家と士族

落合弘樹 / 西郷隆盛と士族


落合弘樹という著者は自分の通っている明治大学の教授で近代史を専門にしている。

故あって、読んでおこうということで3冊購入した。

このうちの「明治国家と士族」はAMAZONで30000円しましたが、奮発しました。



○秩禄処分

これは中公新書から。秩禄処分とは家禄奉還の法から金禄公債証書発行条例までの3年間の出来事のことを指すがそれについての研究。

武士が武士でなくなる、すなはち四民平等となる明治維新。版籍奉還や廃藩置県が円滑に行われた要因はここにあったのだと。

歴史余話


○西郷隆盛と士族

西郷隆盛の伝記に近いが、著者の西郷隆盛観などが窺える。

歴史余話



○明治国家と士族

吉川弘文館から。これは非常に難しい著者の論文である。とっても難しい。本当に難しい。

一大学生が手にするような本ではなかったことだけは確か。


ちなみにこの本の1章は秩禄処分について、3章は士族についての研究なので、この研究論文をもとに上記の2冊を出版したのだろう。(推測)


歴史余話

最近は訳あって幕末の学術書ばかり読んでいますが、どの学者も徳川慶喜は酷評です。僕も全面的に賛成なので少し述べる。


徳川慶喜は権力に執着心があるが、危険なリスクを伴いたくないというジレンマがあった。

執着心は当然で彼は一橋派の将軍継嗣の元候補だったからだ。

一橋派は公武合体を唱える雄藩(越前藩・松平慶永、土佐藩・山内豊信、水戸藩・徳川斉昭、宇和島藩・伊達宗城など)や、

開明派の幕臣(岩瀬忠震、井上清直、土岐頼旨、川路聖謨、大久保一翁、永井尚志など)といった次世代を担う人材に支持されていた。


南紀派はあまり知られていないが井伊直弼のほかに松平忠固、松平容保などがいる。



ともかく南紀派の策謀(徳川家定個人の意向という説もある)によって一橋慶喜はじめ一橋派の諸士は失脚した。

しかし、英明で知られる一橋慶喜はことあるごとに徳川家茂に食って掛かり、将軍の座を脅かそうとした。

ゆえに両者は仲が悪く、勝海舟などは徳川家茂から薫陶を受けていたが故に両者は最後までそりが合わない。

第二次長州征伐に於いて、徳川家茂は「力不足なので、将軍は辞任して後は徳川慶喜に任せる」などと言って江戸へ帰ろうとする所を

徳川慶喜に駕籠を止められて引き返すなどの内部崩壊の兆しも露呈している。


余談だが、これを内部崩壊とせず、徳川家茂と対抗する徳川慶喜は京都に於いて会津藩・松平容保、桑名藩・松平定敬などとともに

幕府の意向とは違った路線で動いていたという学説があり、これを一会桑政権と言ったりする。


以上が徳川慶喜が権力に対する執着心を説明した。次は彼が責任を背負わない姿について3つの例を伴いご紹介する。



①第2次長州征伐の末期に、徳川家茂が死去すると、血気盛んな徳川慶喜は孝明天皇から無理矢理長州再討の勅諚を引き出し今にも長州を滅ぼさんばかりの勢い。

しかし小倉城の落城など敗報を耳にすると翻すが如く停戦の勅諚を引き出した。この変わり身に孝明天皇は立腹するが

「小倉城の落城は天災などと同様で予知できなかったから仕方がない」などと開き直っている。


②大政奉還をしたことも薩長との軋轢を回避しつつ権力を離さない権謀の一種であろう。ここで大政奉還をしながら、フランスイギリスなどの諸外国には

外交権はいまだ幕府が有している旨を通達している。外交権は国権の証なので、幕府が依然として国主であることを外国に通達したと考えてよい。これが②


③鳥羽伏見の戦いの戦い勃発に際しても徳川慶喜の態度は不明瞭である。実際幕府軍は3倍の兵力と軒昂な士気を有していたのであわよくば

戦勝に乗じて薩長を駆逐しようと考えていたことは間違いない。頽勢が明らかになると、大阪城から海路、江戸城へ遁走していることから

これを③の責任回避の要素として挙げたい。



要するに慶喜嫌いってことです。なんかむかつくじゃん。




PS

最初ツイッタ-で書こうと思ったら長くなったのでこっちに書きました。

WEBで公開するくらいならもうちょっとまともな文章と出典を書かなければですよね。

次から気を付けます。すいません。