「今日は、天気が良いから散歩に出かけ、ぶらぶらしながらショッピングでもしようか。そういえば、アイツにもしばらく会ってないな。誘って映画を見て、そのあと食事に行ってカラオケでもいくか」「遅くなったら、あいつの家に泊めてもらおう」こんな何処にでもあるちょっとした当たり前の自由も、今の介護保障では満たすことはできないのが現状だ。
 身体が自由でも、身の回りのことを全部自分でしている人はいるだろうか。障害があってもなくても几帳面、大雑把な人もいる。健康であっても、いつ、病気やけがで障害を負って介護が必要になるかもしれない。そうでなくても、だんだんと年を取り体が不自由になることはさけられない。
 自分の意志と判断で身体を自由に動かすことができれば,生活動作に対価としての経費は発生しない。例えば、「水」を飲むと水道料という経費が発生するが、水を飲むまでの前後の動作には経費は発生しない。仕事上のノルマや大事な約束以外は、全てプライベートの時間である。スケジュールが決まっていても予定を変更したり、体調や精神状態の変化によって物事の時間を早くしたり遅くしたり、省く事もできる。その時の状況に合わせて、臨機応変に行動できる自由がある。
 では、介護が必要な人にとってはどうだろうか。食事,排せつ,着替え、洗面,入浴,移動(外出)等の生活動作と行為は、家庭・学校・職場・散歩・外食・買い物・映画・冠婚葬祭など生活上のあらゆる場面で必要不可欠である。これらの時間を前後したり省いたり、また介護者が不在となるようなことがあれば、生死につながる危険もある。 
 介護保障を、「便宜を図る」という意味のサービスとして捉えられては困る。
 介護を仕事として位置づけ、介護福祉士・ホームヘルパー・ガイドヘルパー等の専門職が、責任を持っておこなってもらうことを「介護保障」と呼ぶ
ようになったと思う。「介護」を仕事として位置づけるには「経費」がかかるわけだが、それを介護の必要な人に対して負担を押し付けて、負い目を感じさせるような制度では、同じ人間として「不公平」ではないだろうか。
 介護の必要な人にとって、日常生活動作の保障は生きていく上で必要不可欠で、生活上の全ての場面で生きる権利(生存権)として保障をすることが、国や行政の義務だと思う。
 日常生活動作を「生きる権利」として認めていくことこそが、ノーマライゼーションへの社会につながる近道だと思う。