最近猫好き、猫ブームがコロナ禍もあって加速してる感じしますが どうもアメリカの研究で 猫はアスペルガー 犬はADHDなんて(これは極論だけど) 言われててあながち間違いじゃないようで
これはなんとなく私も感じてた事でやっぱりなー!と思ったんですが
現代の異様な猫信仰と自閉的な物の考え方、どうも何か理由あって推されてるような気もするんですよね

私個人は猫も犬も嫌いじゃなく 基本どの動物も好きですが、どっち飼うと言われたらやっぱり犬派です。というのも今まで海外に居て色んな動物のシッターしましたが(魚から鳥から犬猫、うさぎまで) やはり猫は個人的に大変と思ったのが、パーソナルスペースというか、全体的に境界線が曖昧なんですよね。これは飼い主の管理にもよるんでしょうが、というか猫の場合完全飼い主の管理力バレますね。。。
まず食事中テーブルに上がるなんてどの動物飼っても基本はもっての外だと思いますが、案外猫好きは〜ちゃんそうしたかったのぉ〜で済ましてしまう曖昧な人が多い。。。これは個人宅でやるのは良いが、客人を招いてもやるので、そういう認知の境界線の甘さがすごくアスペを感じるし、研究でもアスペルガーは猫好きの方が多かったんちゃうかな… なんていうか納得。
あと猫って嫌いな相手にわざとけしかけに行ったり嫌がらせ(絡まなきゃいいのに)わざわざしたり、自分の意思表示がすごくて しかし自分でそこから離れるとかも無い、コミュニケーションがすごい取りづらい感じしてしまう
犬はこの人無理なんだな、と思ったらすっと去ったり 逆に今俺のこと呼んでるかな?と空気で察するところあり
猫好きの人はこれを奴隷っぽいと馬鹿にしたりするけど 人間と生きる以上本来は社会性ある程度無いと 世が世なら生存確率難しかったんでは?と思う これは個体差にもよるかもだけど

どうしてこんな社会性について怠惰というか、敵視する風潮になってるかというと やっぱり昨今の引きこもりや学校内でのいじめ、家庭内DVとかもあり 自分だけが分かる/分かってくれる相手という ある意味隔離された 関係を求める風潮に傾いてるのかもしれない けど猫について性質を見ていて思うのは 猫自身は人間のとこに来たというより 餌を撒いたら来るので🙃都合が合うところに猫は来る、そういう感じじゃないのか。
言うなれば結婚はしないが間男/間オンナには喜んでなる、というような今の世相に似てる でも籍を入れると相手が変わるなんてよく聞くしねぇ 自分の都合で見てる相手が本当にそのものか そこまで深入りしたくない、なんて言いながら世間に不満垂れてる人達の心情は正直自分には分かりません🙃

自分が社会を否定した先で作る自分の中の社会、っていう構図が今の自閉的世界観を作り出していて そこに象徴的に提示されてるのが今の猫ブームなんだろうが、私はこれは先細りなんでは無いかと感じています 特にこの有事が重なる流れにおいては… 社会性というのはやはり人間が人間として生きるのに一番必要だった 自分一人で産まれ出た命なんてありません

勿論どんな動物もきちんと愛情を持って管理されている方は素晴らしい きっとそれに動物も 無愛想な猫ですら感謝してるのは私もそう思う あくまで人間の目線だけど

しかし自分の孤独を埋めようとか 優しく見せようとか 良いでしょうそれも一時は でもそれで築いた関係はそのまま自分のものになる 例え相手が動物でも
本当に相手の命が大切で大事だったら そんな意識になるかな?

昨今の自閉的世界観押し(環境ヤクザのグ○タちゃんとか) 境界知能怪しく回る寿司屋で問題起こしてる人達、子供を揶揄ってわざと泣かせ笑い者にする実の親、この系統の人達みぃんな猫好きなのはなんか分かる気がするのです 猫様猫様なんて、ハナから相手とコミュニケーション取る気など無いのですよ でも猫自体も気紛れだから、その気質故に"離れられない"のです 依存的だと感じる

オカルトっぽい話になるけど風の時代になってからここら辺の境界線がすごくハッキリしてくると聞いて、あぁきっとそれこそ境界線の甘い人達(自分で線引きの出来ない人達) は宙ぶらりんになるんだろうと思ってきた 今本当に周りでそうなりつつある まぁそれが物理的に脳の造りのせいもあるともう対処もキリないんだけど

ダイバーシティなんて言ってる内に、ハッキリ棲み分けされるようになっちゃった でも相手を脅かすし自覚が無いのは、やっぱりいつもその境界線が分かんない人達 ケーキがきちんと切れない人達が、相手に譲れるわけないもんなぁ。

個人的にもバレエやってて有名ダンサーも業界も圧倒的に今猫好きが多く、何故か犬好きが殆どあまり出てこないんだが、

もしかしてこれフラグか…?と思ってる いや別に猫飼ってる事が悪とかダメとか言ってるんじゃないんですよ、この界隈の人ってちょっとカルトじみてる人多いから一応言っておきますけど

いやただ飼ってる動物の話ですからそれが何って感じなんだけども この"社会性"って部分 最近随所になってきてる気がするんですよ… コロナで基地外が表に出てきてから余計 皆んな本当に怒ってるのを感じる 真っ当に生きてる人もきちんと居る訳ですから

これ結構すごい引っくり返り方するかもね…… 人権ヤクザの皆さん大丈夫か

反社会って言いながら社会掌握しようとするんだもん。支配欲あるけど自分は支配されるのは死んでも嫌ですって

スカーかよ…

情動剥奪についてお話ししたいと思います あくまで自分の感じた意見ですが 専門的なあれそれとか スピ系がどうとかも全く精通してなく 思い込みで言ってるだけですのでご容赦ください

人間ネガティヴが嫌い!という空気が蔓延する今の世の中、じゃあなんでいつまでも虐めや搾取があるのかというとやはり 支配欲求や優越感のために他人を踏ん付けて安心したいという単にそういう感情じゃないでしょうか

ネガティヴが嫌いと言いながら他人の苦しみや立場を自分と照らし合わせ人の不幸で飯を食うのがなんだかんだ好きなのが人間の常 嘘っぱちであり

私は性善説も性悪説もどっちもありだと思っています なぜなら 本当に心の綺麗な人間も居るから 人間そんなに心の綺麗な人ばかりじゃないとは言うし勿論自分もそう思うけど 産まれ付き心の綺麗な人ってのも確実にこの世にいる訳です。そういう人ってのは中々会えないし大声出さないので居ない事になってますがそういう他人の苦しみで活力を得る、エナジーバンパイアみたいな人がそういう人に出逢うとどうなるか
まず問答無用で消そうとしますよね 時には示し合わせたように集団で。居られちゃあ困るのです。自分達が今までやった嘘や不正が"人間の事"じゃなくなるから。"皆んなやってるから"がその一人の同じ人間の存在で揺らぐようになると、自分達の存在意義も当然揺らぐ(ような気がしてるだけ)からです

しかしいつもおかしいのは 消そうとしながらも消えられると今度自分の不正を消して真っ当に生きていく"本当の上手いやり方"を知らないし考える能力が無いので 当然依存するようになります。奴隷扱いです。


しかし私が最近思うに、良薬というのは良薬ですので 使う人によっては猛毒にも成り得ます。誰でも形だけ真似すれば成るという物でも無く でもお馬鹿さん達はこういうところが分かりません 同じように"吸い取って"やっていれば簡単に自分達も同じように上手く生きていけるだろうとまた勘違いします。ところが、こういう心や身の"綺麗な"人間という 所謂"あげまん"の人達というのも同じ人間ですので扱い方を間違えると 寧ろそういうお馬鹿達なんかより何倍も猛毒に変わり得ます。人を舐めている、っていうのはこういう事だと思うのです。


私は自己愛パーソナリティ障害で境界線の大ゴケしたアスペルガーの父親や身内に大変苦労し 外でもそういう"他人は喰いもの"と認知してる魂の腐った人間に会う事が多い星なんですが、最近カサンドラ症候群が精神医学界では無いものとされている話や、情動剥奪という言葉がありながら障害者と暮らすパートナーの理不尽は全て本人のせいにされるなど、"障害"という名前を使い他人を潰して生きるような事が行使される、又は明らかに本人に判断能力が無いレベルの障害なのに野放しにし、起こした問題の責任能力を認知の無い人間に問うなど(もはやどっちがボケているのか分からない) もはや何のための人権なのかわかりませんが


とにかく その"情動剥奪"を20年以上受け育った身としては 人の感情や思い、意思などを軽んじ、利用した挙句搾取しまるで自分のものであるかのように盗み振舞われる理不尽については本当に極限に至るまで(本人自殺未遂をしております)やられたので その罪の重さを思っています


これが本当に障害で分からないというのなら仕方ありませんが、私には彼らがどうも相手の人権より自分のスリルや快楽を"優勢してしまう"というだけの"理性的筋力"の無いグズにしか見えません。だって自分の欲しい物には死ぬ気で行けるのですから。分からないのでは無く"理解したくない"障害なのです。それも子供の内に親が鍛えなかったら、障害があろうと無かろうと余計野放しのクズになります。今そんな人間ばっかりじゃないでしょうか。与えても与えても、頭も心も自分で保つ筋力が無く空っぽなので、常に貧困なのです。



人の思いや思念というのは本当に恐ろしい力を秘めていると思います。純粋であればあるほど毒になるのです。諸刃の剣だと思います。自分の信念をコントロールし、鍛えてきたから扱えるものです。側から奪って、簡単に扱えるなんて物では無いのです。私は最近思います。人の信念や情動、美しい感情を横から強奪し自分のものにしようとする事は何よりも猛毒で、一番罪の重いカルマになると。


自分で得て自分で痛んで来なかったものは自分の物にはなりません。最近のポジティブ信仰にはこういう裏返しが見えます。自分でポジティブになろう!と豪語しながら、横目に他人のそれを狙っていて、常に奪う機会を狙って居るのです。私は自分の感情を自分で生成出来ません!と豪語して居るようなものです。ネガティヴが嫌いなのでなく、自分で自分の情動を対処する事が出来ないので、他人のポジティブな"バイブス"を奪い、自分で成ったような気になって居る愚か者です。


陰なくして本当の光はあり得ません。"お陰様で"という言葉は日本独特のものです。影を軽蔑する物に光はあり得無いのです。



自分で生きようとしない者に自分を生成する事はこれから余計出来なくなって行くでしょう。