聖徳太子はいなかった?

 聖徳太子といえば、日本の歴史の上でもピカイチの存在。しばらく前までは高額紙幣の代表でした。歴史の教科書にも必ず大きく出てきて、憲法十七条、遣隋使、冠位十二階、三経義疏なんてのを覚えさせられたものです。飛鳥文化の花形で、法隆寺には修学旅行で行きました。一度に十人の言うことを聞き分けたとか、スーパーマンみたいな話が伝えられています。いろいろ小説にもなっていますが、マンガでは、何といっても山岸涼子の『日出づるところの天子』が秀逸です。

 その聖徳太子がじつはいなかった、というのが、最近大きな話題になっています。谷沢永一さんまで『聖徳太子はいなかった』(新潮新書、2004)なんて本を出していますが、これは読んでみましたが、バツ。

 さて、「聖徳太子はいなかった」論ですが、大山誠一さんという古代史学者が震源地です。『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館、1999)でこの説を出して、大きな反響を招きました。『東アジアの古代文化』という雑誌で、何度か特集を組み、そこに発表された主要な論文は梅原猛他『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、2002)にまとめられています。大山さんはさらに、『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001)で自説を補強しました。今年になって、大山さんと彼に賛同する研究者による論集、大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2004)がでて、かなり幅広くこの問題を扱っています。

 このところ、慌しくこれらの本に目を通しました。専門ではないので、間違っているところもあるかと思いますが、その主張な論点をまとめてみます。

 大山説の要点は、『聖徳太子の実像と幻像』(340頁)に自らまとめた箇所がありますが、それを段落に分けて引用してみます。

1、厩戸王という一人の有力な王族が実在したことは確かだが、聖人として信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。

2、その聖徳太子という人物像が最初に登場するのは養老4年(720)に成立した『日本書紀』においてであり、その人物像の形成に関与したのは藤原不比等・長屋王・道慈らであった。その目的は、大宝律令で一応の完成を見た日本の律令国家にあって、それを主宰すべき天皇が、中国的聖天子像をモデルとして〈聖徳太子〉を創出し、これによって皇室の尊厳を確立しようとしたのである。

3、その後、不比等が亡くなり、長屋王の変後の天平年間に、藤原武智麻呂・光明皇后を中心とする権力が確立するが、大地震・疫病流行などによる未曾有の危機に陥る。そのような時、光明皇后は〈聖徳太子〉の加護を求めるため、行信の手引きで法隆寺に接近し、法隆寺を舞台とした新たな聖徳太子信仰を創出することになる。そこで成立したのが、薬師像・釈迦像・天寿国繍帳などの銘文や『三経義疏』などの法隆寺系の史料であり、さらに救世観音を本尊とする夢殿であった。

 大山説の特徴は以下の点にあります。

1)推古時代に実在した厩戸王と、後にその上に創造された架空の存在である聖徳太子をはっきり区別する。

2)推古時代の史料とされるものをほとんど完全に否定し、中国側の史料(『隋書』)に出る遣隋使の派遣や、考古学的に実証される法隆寺の建立など、ごくわずかなものに限定する。

3)『日本書紀』以前の聖徳太子神話の形成を否定し、太子に関わる神話はすべて『日本書紀』の創作だとする。

4)法隆寺系の史料を、『日本書紀』以後の成立と見る。

 これらの点をもう少し検討して見ましょう。

 第一点。これは適切だと思います。歴史的人物としての厩戸王と、神話的人物である聖徳太子は分けて考える必要があります。

 第二点。聖徳太子に関わる同時代史料とされるものが、ほとんど疑問があり、後世の作と考えられることは、すでにいろいろな人が指摘していて、この点では大山さんのとりわけて新しい説はほとんどありません。ただ、これまで以上に厩戸の存在を小さく見ています。

 第三点。これは大山説の新説です。これまで多くの人は、太子信仰はもっと古くからあるもので、『書紀』はそれを発展させたと考えてきました。この問題は、『書紀』の成立問題とも絡みます。『書紀』に、藤原不比等が関係していて、その政治的意図が反映していることはすでに多くの人に言われていますが、大山説はさらに、長屋王も関係していたとするところが新説です。また、道慈という坊さんが、『書紀』の仏教関係記事を書いているのではないか、ということは以前から言われていますが、大山さんは、道慈の役割を大きなものと考えて、聖徳太子像の成立にも道慈が大きく関わったと考えています。

 第四点。これも多分大山説の特徴だと思います。ふつう、法隆寺系の史料のほうが、『書紀』より古い要素を含むと考えられています。

 ボクにはもちろん何か言えるほどの知識はありませんが、聖徳太子神話による聖人化は、もうちょっと古くはじまっていたのではないかと思います。

 第三点は、『書紀』の成立とも絡む問題ですが、『書紀』の成立に関しては、森博達氏の語学面からの研究によって、近年の研究は急速に進展しています(『日本書紀の謎を解く』、中公新書、1999)。森氏によると、音韻や語法が、きちんと正規の中国語になっているか、それとも日本風の誤り(いわゆる倭習)が多いかで、『書紀』は二分されます。

  α群――巻14-21.24-27 (正規の中国語)

  β群――巻1-13.22-23.28-29 (倭習が強い)

 α群はおそらく中国人によって書かれたもので、先に成立し、β群のほうは日本人によって後で書かれたと考えられています。聖徳太子関係を含む推古紀は巻22で、β群に属し、実際に倭習が強いとされます。森氏は、β群の筆者として、道慈ではなく、山田史御方と推定しています。御方は、僧として新羅に留学し、帰国して還俗した人で、仏教に通じていたので、仏教関係の記事を書くのにも適当と考えられます。この点も検討の余地があります。

 最近出たものでは、遠山美都男『天皇と日本の起源』(講談社現代新書、2003)、遠山美都男編『日本書紀の読み方』(同、2004)の2冊が、この問題も絡めて、『書紀』の新しい読み方を示していて、興味深いものです。前者では、厩戸の活動を特に外交に見て、大山説よりも大きな活動をしていたと見ています。後者では、前田晴人さんが「「飛鳥仏教史」を読み直す」の章を担当していて、なかなか面白いです。前田さんによると、皇極天皇までは、天皇が仏教信仰のイニシアティブをとることができず、蘇我氏に委ねられており、孝徳(大化の改新)になってはじめて天皇が仏教信仰をリードするようになったと見ています。ですから、推古時代も蘇我氏が仏教信仰の主体で、厩戸は蘇我氏の後ろをついていったと見られています。

 今回は、えっせーというよりも、付け焼刃で勉強したことをそのまま報告するレポートみたいになりました。お許しください。

2004.5.9

HOME 》《目次