国道313号・美作街道を行き来するたびに気になっていた謎文字。
おわかりいただけただろうか?
もう一度、ご覧いただこう。
おわかりいただけただろうか?
天に向かって力強くそびえるそれ。
水鏡に映るそれ。
「耳」。
巨大な耳がお出迎え。
「みみろくの里」。
この里の長は、ミミ萩原か・・・?
「耳遊園地」。
近づいてみた。
デカい。
耳の裏からコンニチハ。
広場の真ん中に大きな鍵を突き刺すと地面を突き破ってドデカい耳が飛びだした。
近くで炭焼きをしていた山崎五郎兵衛さんに重量1キロを超える大きな耳くそが直撃!!
山崎さんばったり!!
すべては妄想。
謎すぎる・・・。
その答えは里の入り口付近にある。
「みみろくさん」とは?
この里の名前の由来にもなったとされるむかしばなしがある。
むかしむかし、親孝行で働き者の若者がいた。耳の病を患い、とうとう聞こえなくなってしまったが、なおいっそう家業に励み、村のため、困っている人たちのために一生懸命働き続けた。この村に全国行脚の途中に立ち寄った僧は感心し、若者に不思議な法力を授けた。そして「広瀬集落から弥勒菩薩を持ち帰りお祀りするように」と言い残した。若者は苦難を乗り越えて、弥勒菩薩像を持ち帰り祠を建ててお祀りした。若者の耳もよくなって聞こえるようになり、嫁を迎えて幸せに暮らしたという。
みみろくさんをお祀りした祠は里の奥。
上って、上って、上った先!!
はい、ここ。
里が一望できる弥勒堂にお祀りされている。
堂宇の裏に鎮座する小祠は「耳神社」。
御祭神は、日吉ミミ・・・か?
弥勒堂の前には、上にも下にもお椀がザックザク。
これらは耳鼻咽喉の病平癒を願って奉納されたもの。
由来書き。
「みみろくさん」
このお堂は倉吉市関金町の曹洞宗法願寺の説教所であり、本尊は弥勒菩薩で文久三年(一八六三)法願寺の住職九世得量の時代に造像された。
弥勒菩薩の「みろく」の音読から「みみろくさん」として親しまれ、耳の病におかげがあると伝えられる。
毎年「春」「秋」の彼岸には、近郷、近在から多くの方々がお参りされる。
風習として木椀、貝殻、平たく丸い石などに願い事を書き、中央に穴をあけ、針金や紐を通してお堂につりさげ祈願されている。
現在のお堂は昭和六十三年(一九八八)に全面改築された。
耳集落の名前は「みみろくさん」の「みみ」とって名づけられたとも言われる。
上小鴨地域つくり協議会
以上、看板全文転載。
「弥勒菩薩」が転訛して「みみろくさん」。
手と手の皴を合わせて「な~むぅ」。
さ、帰ろ。
里の辻。
天保時代に建立された常夜灯。
振り向けば大山。
長閑・・・。
みみ 耳〈倉吉市〉
小鴨川中流域の曲流する地点右岸の段丘上に位置し、集落の背後には小鴨型花崗岩といわれる風化の進んだ黒雲母花崗岩を基盤とする山が接している。地名の由来は、隣村広瀬村の弥勒谷に祀られている弥勒を迎えて祀ると霊験あらたかで、特に耳の病気はどんな難病でも治るといわれ、そのため弥勒様が「みみろくさん」になり、村名に転化したといわれる。集落に接して古墳がある。
〔近世〕耳村 江戸期~明治22年の村名。伯耆国久米郡のうち。鳥取藩領。村高は、拝領高154石余、「元禄郷村帳」260石ル、「元文2年村分帳」260石、「天保郷帳」154石余、「元治郷村帳」233石余、「旧高旧領」266石余。元禄の本免は5.4、「元治郷村帳」の作成は79石余。戸数は、「元文2年村分帳」20、「文久3年組合帳」23。宇留山をはじめとして地内には鈩製鉄の跡がある。氏神は奥津彦神・別雷神・倉稲魂神を祭神とする谷口神社。「みみろくさん」は関金宿にある曹洞宗法願寺の説教所。明治4年鳥取県、同9年島根県、同14年再び鳥取県に所属。同22年上小鴨村の大字となる。
〔近代〕耳 明治22年~現在の大字名。はじめ上小鴨村、昭和28年からは倉吉市の大字。明治24年の戸数27・人口140(徴発物件一覧)。大正4年谷口神社は鴨河内の上小鴨神社に合祀。昭和34年の伊勢湾台風では人家の流失もあり、田畑の流失は当地と若土とで24haに達した(倉吉市報)。この水害の復旧工事により、水田区画はかなり整理された。同43年頃に集落に近い山すそを開墾して3haあまりの柿園を造成。世帯数・人口は、昭和30年26・164、同40年26・149、同50年26・107。
以上、『鳥取県地名大辞典』749頁より転載。
◆概要
名称:耳
所在地:鳥取県倉吉市耳
●アクセス
自動車:倉吉道路倉吉ICから国道313号経由約10km30分
鉄道・バス:JR西日本山陰本線倉吉駅から日本交通バス 関金線 関金バスセンター行乗車35分耳下車徒歩すぐ
◆参考
『鳥取県地名大辞典』角川書店 発行