鳥取市内から鳥取県道31号鳥取国府岩美線を岩美町方面へ走り殿トンネルを出てスグ左折。殿ダムの上流、袋川の支流神護川(かんごがわ)に架かる足倉橋を渡った左手に鎮座する巨大な石。

 

 

案内看板などがないので由緒不明。

 

 

便宜的に地名から「神護の巨石(かんごのおおいし)」と呼ぶ。

 

 

隣にある小屋と比較してみればその大きさがおわかりいただけよう。

 

巨石の先の十字路を左折すれば隠れ里の雰囲気漂う集落「神護(かんご)」。

 

 

〔中世〕神護は神後とも書き「神護別符」は戦国期に見える別符名。因幡国法見郡大萱郷のうち。紙木別符とも書き、また神護村とも称す。室町時代中期の1430(永享2)年8月10日の清守安堵状に見える「紙木別符」が初見。

 

 

〔近世〕「神護村」は江戸期から1889(明治22)年までの村名。法見郡のうち。鳥取藩領。村高は拝領高52石余、「元禄郷村帳」84石余、「天保郷帳」80石余(うち新田高20石余)、「元治郷村帳」108石余、「旧高旧領」110石余。戸口は「因幡志」24戸、安政5年大庄屋書出張29戸・149人、「文久三年組合帳」28戸。

 

 

谷あいではあるが比較的水田に恵まれ、山林も広いため製炭などが行われた。鳥取城下や広西郷方面から上野山を越えて大茅郷方面への間道が地内を通り、近道としてしばしば利用され、交通の要所であったと伝承する。

 

「因幡志」によれば、氏神は武王大明神・緑大明神・聖大明神。また摂社荒神八幡宮、観音を祀る辻堂がある。

 


丸い輪の神・・・

 

 

氏神の3社は1874(明治7)年神護神社と改称。

 

1871(明治4)年鳥取県、1876(同9)年島根県、1881(同14)年再び鳥取県に所属。1879(同12)年の戸数28・人口149人(男79・女70)、牛32頭、産物は米・麦・麻苧・楮皮(共武政表)。1882(同15)年中河原小学校神護分教場設置、1887(同20)年中河原小学校に併合されて廃校。1889(同22)年同儀村の大字となる。

 

〔近代〕「神護」は1889(明治22)年から現在の大字名。はじめ登儀村、1918(大正7)年成器村、1952(昭和27)年大成村、1957(同32)年から国府町の大字。明治24年の戸数は31・人口168人(徴発物件一覧)。同30年代雨滝街道改修に伴って谷あいの神護川沿いの村道を改修して雨滝街道に接続、荷車の通行が可能になった。明治期に入り養蚕が導入されたが、昭和初期に廃れた。昭和30年代末頃から山林農業が一般に不振となり、専業農家が減少。昭和初期の氏子数は28戸(県神社誌)。世帯数・人口は1960(昭和35)年25・153,1970(昭和45)年23・127、1978(昭和53)年2・114。

 

太字部分『鳥取県地名大辞典』270頁より転載。

 

殿ダム建設のため集落近くまで水没し、現在は茅葺き屋根が数戸残るのみ。

 

 

集会所「かやぶき交流館」。

 

 

その奥にもう一軒、崩れている。

 

 

十字路を直進すれば「殿ダム古神護広場」。

 

 

殿ダム建設時の地元振興策として造られた広場。

 

 

立入可能時間は午前8時30分から午後5時、休場日は月曜と年末年始。

 

左右に急斜面が迫る狭隘な道の先・・・

 

 

長いV字の底を進むと斜面の上に広場。

 

 

貸し切り状態、ほたえ放題。

 

 

眼下には壮大なV字峡谷。

 

 

ちょっとしたロンダルキア。

 

◆概要

名称:神護

所在地:鳥取県鳥取市国府町神護

●アクセス

鉄道・バス:JR西日本山陰本線鳥取駅下車日ノ丸自動車中川原線山崎橋行乗車30分山崎橋バス停下車約3km徒歩40分

自動車:鳥取自動車道鳥取ICより国道29号・鳥取県道251号国府正蓮寺線・同31号鳥取国府岩美線経由22km30分

 

◆参考

『鳥取県地名大辞典』角川書店 発行