米子と境港を結ぶ鳥取県道47号(内浜産業道路)から一筋奥に入った場所に建つマンション2棟。

 

 

およそ5年ほど前に竣工したものだがそれ以前、ここに何があったのか時間を遡ってみる。

 

6年前の2017(平成29)年1月、建設中のマンションがあった。

 

 

10年前の2013(平成25)年4月初旬、広大な更地が広がっていた。

 

 

この1カ月前の同年2月末、建屋に覆いが掛けられ解体工事が実施されていた。

 

 

これから半月あまり前の同2月中旬、広大な古い土蔵屋敷があった。

 

 

それは荒れ果てた姿を晒しており、夜になると邸内に人魂が飛び交い、影女などの物の怪が巣食う妖怪屋敷(『ゲゲゲの鬼太郎』二期第36話「妖怪屋敷」)といった有様。

 

 

資料によるとおよそ1,600㎡の敷地に数寄屋造りの主屋(約350㎡)や離れ、茶室や土蔵が建っていた。

 

 

このお屋敷はかつて「米子の奥座敷」と呼ばれた「灘町後藤家住宅」。北海道の鉱山経営で成功した後藤彦三郎が、野村財閥創始者の別邸・野村碧雲(へきうん)荘(京都市左京区・重文)も手がけた大工を呼び寄せて建てたもので、1932(昭和7)年着工し、1935(昭和10)年に完成した。戦後は連合国軍が一時使用し、1956(昭和31)年から10数年間は料亭として使用されていた。

 

水木しげる夫人、武良布枝さんのエッセイ『ゲゲゲの女房』によると、1961(昭和36)年1月25日に安来のご自宅でお見合い、その10日後の1月30日には米子で挙式。式場となったのがこの「灘町後藤」。

 

その後、空き家同然となり、2000(平成12)年10月6日に発生した鳥取県西部地震で被災し更に荒廃。2009(平成21)年に市内のまちづくりNPOが建物の保存に役立てたいと、清掃活動に入ったが、すでに手の施しようがない状態に至っていた。修復するにしても数億円の費用が見込まれるため2013(平成25)年2月から3月末にかけて解体された。

 

以下、定点観測。

 

角に建つスクラッチタイルが貼られた洋風の建物。

 

 

その正体はダンスホール。

 

 

裏門(通用門)。

 

 

裏門(通用門)跡、2013(平成25)年4月初旬、更地状態。

 

 

裏門(通用門)跡再開発後、2017(平成29)年6月。

 

 

土蔵、2013(平成25)年2月上旬。

 

 

同2月中旬。

 

 

正門側から見る屋敷内の様子、2013(平成25)年2月中旬。

 

 

同3月上旬。

 

 

同3月上旬~中旬。

 

 

同3月中旬。

 

 

同4月上旬。

 

 

現在ここにそれらを示す碑や駒札などはない。

 

知る人ぞ知る聖地。これでいいのだ。