明日は節分、豆をばらまき、恵方巻を喫する日。

 

徳島県で節分の夜に現われたという、髭の生えた一つ目の鬼「夜行さん」。

 

 

古より伝わる妖怪変化の活動する「百鬼夜行日」には、首なし馬に乗って道を徘徊したといい、これに運悪く出会ってしまうと、投げ飛ばされた挙句、蹴殺されるといわれる。また、手に持った笊に入っている針の生えた豆を投げて目に当てるともされる。このため夜行日には、人々の夜歩きは固く戒められた。

 


 

「夜行」というのは、神祭りに際して一般の人には見せない深夜などの秘密の儀式を指すものだったらく、夜行日は、節分、大晦日など、特定の祭りに関係する物忌みの時期だった。禁忌を犯したときの制裁に対する恐れが、やがて夜行さんなどという妖怪の恐れに変化したのだろうと、『神話伝説辞典』見られるという。

 

 

節分会は『延喜式』に定められた宮中行事のひとつで、陰陽師によって大寒の前夜半に、牛と童子の彩色土人形を大内裏の各門に飾って鬼を払うまじないのことを指す。なお、これらの土人形は立春の前夜半に撤去される。この行事は宮中行事として平安初期から大晦日に行われている「追儺(ついな)」が元になったものだとされている。

 

四つの目で東南西北の四方を漏れなく監視し、手に持った太刀で悪鬼・疫鬼を退ける方相氏。

平安初期の『延喜式』にも記されている宮中の年中行事「追儺」で、鬼を追う役目を負った役人(大舎人)を「方相氏」と呼び、脇に仕える20人の侲子(しんし)[※「しん」は人偏に辰]を従えて、大内裏内を掛け声をかけながら回る。

 

 

方相氏役は袍(ほう)と呼ばれる上衣を着て、金色の四ツ目の面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯を持つ。方相氏が大内裏を回るとき、公卿は清涼殿の階(きざはし)から弓矢をもって方相氏に対して援護としての弓をひき、殿上人らはでんでん太鼓(振り鼓)を振って厄を払ったとされる。

 

 

しかし、9世紀中ごろから、鬼を追う役であった方相氏が逆に鬼として追われることになったという。

 

現在、京を代表する節分行事である吉田神社の追儺式に登場する方相氏は、侲子(わらわべ)といわれる童子を従えて疫鬼を退散させる。

 

◆参考資料

『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』 水木しげる 著 講談社 発行

『妖怪大図解』 水木しげる著 小学館発行

『日本妖怪大事典』 水木しげる 画 村上健司 編著 角川書店 発行