昨夜ようやく、懸案の論文を一つ書き上げた。(実は、この他にも3つほど〆切間近の論文・エッセーを抱えている。)いつものことながら、一つの論旨を確定させていく作業として、色々と周辺の資料まで読み込まねばならないわけだが、机の上に山盛りにしてしまった文献を相手に、昨夜はほぼ徹夜で格闘していた。


その資料の中で、ひとつ、おや? と思ったのは、小西幸雄『仙台真田代々記』(宝文堂、1996)の第7章の記載であった。


真田幸村の遺児・大八が白石の片倉小十郎のもとに匿われ、その系統が子々孫々相続き、正徳年間に幕府に憚ることはもう無かろうと判断され、晴れて片倉姓から真田姓に復したということが、仙台藩に呈上した真田氏の書き上げ記録には述べられている。


近代以降、この仙台藩の真田氏の事跡が活字化されて広まったのは、『仙台人名大辞書』(昭和8年)の記事によってであろう。そのもとネタになっていたのは、明治になってから真田氏子孫によって提示された「仙台真田系譜」の情報のようである。


『仙台真田代々記』はこの仙台真田氏に残された伝承を詳細にまとめた労作である。


仙台藩はその藩士構成を詳細に見ていくと、大藩ならではというか、寛容と言うべきか、東北各地の名族・土豪、あるいは豊臣方についた勢力の係累を召し抱えている。


例えば天童氏。これは言わずとしれた最上義光の姻戚であった家だが、流れ流れて結局は仙台藩に落着し、準一家として、現在の多賀城市内の八幡地区に屋敷を拝領した。


伊達政宗と奥羽の覇を競った葦名氏も、やはり準一家として仙台藩におさまっている。東北地方の大名たちは複雑な婚姻関係を重層的に何世代も重ねてきたから、結局みんな身内ということなのだろうが、それにしても仙台藩の鷹揚さはすごい。


豊臣方の名族と言えば、土佐の香宗我部氏も仙台藩士となっている。この一族はとりわけ幕府に対して憚りがあったようではなく、香宗我部を終始名告っている。


そのような類似例を考えれば真田一族が仙台藩に身を寄せていたとしても不思議はないのであるが、さすがに幸村の遺児云々の話の事の真偽は確かめようもない。ただ一つ確実に言えることは、近世中期に真田一族を名告る藩士が存在し、仙台藩士社会の中でそれが認知されたということであろう。


それはともかくとして、小西氏の本の中で、おや?と思ったのはこの真田の遺児の話題ではない。この真田氏に生まれて幕末仙台藩の参政となった人物、真田喜平太の記事に目が止まったのである。


彼は西洋式砲術を下曽根金三郎にも学んだ兵学者としての顔も持っている。また、藩校・養賢堂の要職にも抜擢された儒学者でもあった。時代が多面的な性格付けを与えた、典型的な人物である。この喜平太の母が「林氏」、何とあの有名な林子平の一族だったのである。それだけであれば、仙台藩の歴史上有名な両家が姻戚関係にあったというに過ぎないのだが、実は数年前に林子平の兄の所から出た史料を一括して落札していたのをこのときになって思い出したのである。


論文にすればいくらでも書けそうなネタだったなあ、と反省しつつ、以下、その林家文書からの写真を何点か。早いところ全文を翻刻して発表しなければいけない史料の一つである。宝暦から天保頃までの林家に関する記録留や軍記物の筆写本である。全14冊。


もう一軒、仙台藩真田家は面白い一族と姻戚関係にあったのであるが、それはまた別の機会に紹介したい。



satokenichilab's blog-林1


satokenichilab's blog-林2


satokenichilab's blog-林3


satokenichilab's blog-林4


satokenichilab's blog-林5




[関係系図]


-林友諒(子平の兄)--珍平友通---良伍通明

|                       |

-林子平友直                -チヨウ

                            ||--- 真田喜平太

                      真田長七郎   (参政・砲術家)