凡例


・以下の記録は、2011年12月08日から、2012年1月13日までのTwitterでの呟きを主題別にまとめたものの一つ、「震災と支援をめぐる雑感」である。
・収録した呟きは、著者本人の独白形式のみを採り、RTとそれへのコメント、@付きでやりとりをした会話は除外した。
・各呟きは、ほぼ時系列に沿って提示している。("2011.07.17. at 15:23:10" で呟いた日付と時間を指示する。)

・その時々の印象を呟いたものがほとんどであるので、後に諸状況の変化が生じて事実とずれてしまった記載も認められるが、その時点での記録として収録している。
・収録にあたっては、誤字脱字を訂正し、必要最低限の補足修正に留めている。
・「※」を付して、呟きの背景を注記した箇所もある。
・一連の内容がまとまっている場合は、適宜、小見出しを付けた。


本文


歴史と観光


三陸沿岸被災地に「外貨」を呼ぶため、観光資源の発掘が次の課題になるはず。いつまで歴史ブームが続くか分からないが、ある程度の継続性は期待できそう。三陸沿岸は山と海両方にまたがる中世以来の遺跡・遺物が数多い。この地域の史跡を網羅的に観光の点から調べ直す意義はあるはず。 (2012.01.14. at 10:00:14)


観光に関する実務やノウハウは、ツーリズムや観光学の方にお任せすればよいだろうけど、自然を満喫しながらできる歴史散策のネタ探しは、郷土史関係者が積極的に出ないとダメだろうなあ。 (2012.01.14. at 10:08:32)


三陸沿岸は化石も掘れるし、魚介類が美味しいし、山菜も期待できる。民俗も含めた歴史遺産は、古いものだけでなく、明治以降の産業遺産もある。各エリアごとに道の駅付随施設や公民館レベルで展示施設と紹介があると、気軽に立ち寄れるだろう。 (2012.01.14. at 10:26:41)


地域の歴史遺産の保存は、急を要するけれども、継続する体制構築は一朝一夕にはいかない。地元の理解と関係機関によるメンテナンス・サポートが不可欠。多賀城のように、とてつもない遺跡を抱えながら、宝の持ち腐れ状態になっている所もある。もっとやりかたはあるだろうに。 (2012.01.14. at 10:46:56)


暇な旅人は看板一つで名所旧跡に誘導されるから、それへの投資はバカにできない。例えば、三陸道の東和ICを降りたT字路。右に曲がれば南三陸町へ。左へ曲がれば米谷。実はこの米谷には原田甲斐の菩提寺がある。この情報を矢印付きの看板にして設置すれば、かなりの見学客を期待できるはず。 (2012.01.14. at 11:10:48)

   歴史と観光(了)


そういえばくまモンは、5歳で熊本県の公務員だったはず。。。 (2012.01.15. at 12:49:19)


時限的な施策でいいので、被災地の保育園・幼稚園に複数回、人気ゆるキャラを招いて遊んでもらうような企画、どこかやっていないかな。。。 熊本県からはくまモンの公費出張慰問を期待。 (2012.01.15. at 13:45:51)


学生諸君と


今日の午後から先ほどまで、陸前高田・気仙沼・一関の出身、あるいはボラ活動をしている学生諸君と打合せをし、飲んできた。これからの地域を担う彼らの意見をこそ吸い上げ、共に議論していく事があらためて大事だと思った。大人は真摯に彼らと向き合うべきだし、至らぬ点があれば補ってあげればよい。 (2012.01.15. at 21:05:23)


被災地を出身地とする学生諸君が持っている復興に向けた利点は、郷土を出てからさほど時間が経過していないので、震災以前の町の様子が分かっていること。そして、地域の若い世代とつながれること、外から郷土を見る視点を持っていること、これらだろう。郷里を離れて20年以上も経った自分には無理。 (2012.01.15. at 21:08:44)


学生諸君の話題の端々に滲み出る復興への焦燥感を、彼らの倍以上生きている自分はどのように受け止めるべきか、正直なところ悩む。勢いだけのボランティアに走る時期はもう終わった。かと言って、復興のグランドデザインに関与する能力も機会もない。(それは私も同じ。)考えよう、とだけアドバイス。 (2012.01.15. at 21:27:05)

   学生諸君と(了)


震災の記憶


この震災の「記憶を風化させない」という理念を実現するためにすべき事は、「記録を作り保存すること」。証言を丹念にインタビューし、避難所のチラシやポスターまで集め、地方欄の新聞記事も整理しておくこと。そういう地味な作業をしなければ、人間の記憶は簡単に風化する。まさに歴史の営みだが。 (2012.01.15. at 22:56:56)


「記録」のなくなりやすさを分かりやすい例で言うと、スケジュールを記しておくカレンダー。日付に予定を記入するけど、一ヶ月、あるいは一年経ってしまうと、そのカレンダーは普通捨てられます。意外にも、残りにくい歴史資料はカレンダー・暦なんです。毎年、何百万部と刷られている物なのに。 (2012.01.15. at 23:04:28)


これから震災関係資料を集める作業に入るが、被災地の皆さんにとっては「廃品回収?」と思われるかもしれない。チラシや紙くずのような物まで集めるのだが、避難所でのお知らせとか、配られた物資の包装紙でさえ、そこで避難していた様子を示す大事な証人なので集める。その際はよろしくお願いします。 (2012.01.15. at 23:14:27)


17年目の1月17日に向けて、合掌。まだ一日あるが、当日はその時刻に時間が取れないため、今ここで。 (2012.01.16. at 00:32:29)


いわゆる災害時の「ボランティア論」として簡単に入手できる本を数点読んだが、ボラ側だけの視点での実践論が多いことに違和感を持った。受援側の立場、意識への配慮が薄いという印象。授援と支援のコミュニケーションを取込んだ議論をしないと、ボラの独善論に陥ってしまうだろう。 (2012.01.16. at 09:57:45)


現地に行って誰もがすぐできるボラの仕事が少なくなっているのは事実。ある種の特殊技能や経験を求められる場合が多くなる。むしろ、支援者を支援する間接支援を意識的に広げねばならないだろう。これは半年前ぐらいから言い続けてきたが、年を越して改めて強調しなければ、と感じている。 (2012.01.16. at 11:55:18)


歴史や文化財の関係者によるボラだと、震災直後は文化財レスキューが緊急に求められた。(かなり専門技能に近い。)次の段階として、復旧が一段落した時のボラは、震災関連資料の収集になるだろう。これは昨夜呟いたような内容。チラシやメモなどの「廃品回収」にも見えてしまう作業。 (2012.01.16. at 12:00:57)


震災記録の収集と保存のモデルになるのは、神戸大学「震災文庫」スタッフの活動。今回の震災は広域にわたるので、一大学では無理。被災地の地域図書館、大学図書館が連携して資料収集にあたることになるだろう。それだけに、資料収集の実務、情報提供のボランティアは不可欠である。 (2012.01.16. at 12:21:24)


どこまでコンセンサスを得られるか不確定だが、震災関連資料のアーカイブズ化は、収集段階での人海戦術が確実なので、人件費が相当必要。国や県に働きかけて、基金化か、CFW的雇用創出+ボラで対処するかかな。 (2012.01.16. at 14:39:50)


17年、あるいはそれ以上の時間が経過したことで見えてくる震災の様相というものもあるはずで、記憶の風化を食い止め、未来への指針を残すためにも、証言と記録の保存は続けねば。センセーショナルな報道やイベントに惑わされないためにも、信頼できる情報は保存しておかねば。 (2012.01.17. at 07:32:47)


未来への指針ということであれば、我々にとっては不運であるが、一世代の間に巨大震災を二度も経験した。三度目に来るであろう地震への備えを我々の世代が残さねば、後々の防災対策への社会的信頼は得られまい。当たり前のことだが、敢えて。 (2012.01.17. at 07:41:33)

   震災の記憶(了)


まだEM菌がネタになってるのか。。。 最初にこの代物を被災地で聞いたのが5月ぐらいだったから、しぶといなあ。。。 いや、菌そのものよりも信奉者の方がよほどしぶとい。 (2012.01.17. at 20:27:29)


皮肉を込めて言えば、3.11に東京で国の追悼行事をしてくれるので、多くの被災地は静かに、自分の望む方法で慰霊追悼ができる。原発関連デモも東京で併せてやれば、アピール度は高まるし、被災地の反発も受けないはず。だから、国の追悼行事は東京でやってくれ。 (2012.01.21. at 06:55:23)


今回の震災の被災地はあまりにも広いから、国の慰霊行事を東京の外でやろうとすると、会場以外の県に対する不公平感やら地域軽視を言う批判が出るだろう。むしろ東京でやることで、国の復興にかける強い意思表示を、西日本にも向けて発信できるのではないかな。東日本だけで閉じないためにも。 (2012.01.21. at 07:18:33)


京都検定


今日の研究会で「京都検定」の事が話題になり、面白いシステムだなあ、と感心したことが幾つかあった。第一に、検定一級に合格すると京都産業大学で特別研究員の資格がもらえて、一年間(だったかな)研究活動ができること。 (2012.01.22. at 18:38:31)


第二に、検定合格者は京都府内協賛店の優遇割引サービスが受けられること。これは商工会議所が主催だからできること。第三に、検定合格者のグループが作られる場合もあり、歴史イベントボラなどに参加していること。 (2012.01.22. at 18:43:02)


これに類似の企画は全国あちこちにあるかもしれないが、やはり京都検定のように、合格者に目に見えるメリットとモティベーションを与えることが大事なんだろうなと考える。東京では大手出版社の主催で「江戸検定」が実施されたが、あえなく。。。何もメリットなかったからなあ。 (2012.01.22. at 18:52:02)


これをヒントにして考え付いたアイディア。例えば「防災」「減災」をテーマにした検定イベントみたいな企画はどうだろう?知識・実践・ボラなどの普及教育も兼ねる試み。合格者には研究や実践の特典を与える。課題は誰が主催し、何を特典にするかかな。 (2012.01.22. at 19:00:08)


まあ、防災アドバイザー、ボランティア的な資格はもうどこかで実現しているかもね。 (2012.01.22. at 19:10:23)


自分の住んでる自治体が、既に防災方面でさっきの話に近いことにとりくんでいるみたい、とのお知らせをいただく。うむ、これは恥ずかしい事態だ。申し訳ないのであります。 (2012.01.22. at 19:59:03)

   京都検定(了)


なんだか、震災1年目の3月11日が近付くにつれ、不毛な騒ぎが多くなっているように思う。予想はしていたものの、騒ぐ人にとっては多分最後の節目になってしまうんだろうなあ。記憶の風化の派手な序章になるに違いない。 (2012.01.23. at 05:40:18)

普通に交わしている何気ない言葉が、相手に絶望や悲しみをもたらすかもしれない状況。それが格差なんだろう。 (2012.01.23. at 05:52:53)


こうして度々地震の脅威にさらされていると、復興のプロセスには常に「防災・減災」と一体化したプランが必要なんだな、と痛感する。復興までの間、仮設住宅の防災体制は大丈夫か、学校教育の現場は?などと考えてしまう。いつ次の地震・津波が来ても大丈夫なようにしておかないと。 (2012.01.23. at 21:03:20)


そういえば、去年の7月に長野の木祖村に行ったとき、名古屋市の職員の方とお会いして名刺を交換したが、その方もやはり、「陸前高田市に派遣されて行きましたよ」、とおっしゃってたなあ。その方は水道方面で支援されていた。 (2012.01.24. at 22:03:20)


これから1ヶ月近くの間、東日本では震災・原発絡みのイベントが増えるだろう。できれば一過性のものにはリソースを投じたくはない。継続して支援や復興に取り組む団体を見極めて、応援したい。もちろん、イベントなど打たずに黙々と活動されている方々も忘れずに。 (2012.01.27. at 10:24:47)


戦前の三陸津波の時に展開した軍による救援・広報活動と、戦時中に起きた震災の救援・広報活動を比較してみるのは、歴史的に重要なテーマじゃないかな、と思う。 (2012.01.27. at 10:33:46)


こんなに自然災害の頻発する国でありながら、千年以上も保存されてきた文物が多数あるということは素直に驚き。失われてしまった物も多いはずだが、それだけに、今に伝えられた物を残す取り組みは十分に施されねば、とあらためて。 (2012.01.28. at 08:48:31)


だったら、まずは自分の部屋を片付けろ!ということですね。はい。。。 (2012.01.28. at 08:49:54)


北国で積雪時に地震があった時の避難誘導、地元の方は注意していらっしゃるでしょうが、旅行客は気を付けておくべきなんだな、と今更ながらに気がついた。 (2012.01.28. at 10:24:44)


関東大震災が9月に起きたので、たぶん、防災関係行事がこの季節に偏っている。公的機関の開設時間の関係だろうが、夜間防災訓練の機会もまれ。災害はいつでも起こることを考えれば、訓練の季節と時間帯を分散させることは重要なんだろうなあ。 (2012.01.28. at 10:39:55)


もはや覚悟を決めて動かねばならないことだが、首都圏のラッシュアワー時に直下型地震が起きたならば、群衆津波・将棋倒し、車内缶詰は避けられまい。それを恐れてできる限り、混雑時を外して動くようにしているが、さすがに今朝はそれもできなかった。 (2012.01.30. at 08:00:12)


今でさえこんな感じなんだから、3.11に近づけば近づくほど、各方面の対立や煽り合戦は激化していくんだろうなあ。覚悟しとかないと。 (2012.01.31. at 05:59:22)

これからの被災地支援活動は、見えない対象、見えない現場にシフトしていく。雇用対策、除染活動、地域の見守り、等々。公私ともに、専門的知見がさらに求められる。それだけに、被災地外の人たちの支援活動への理解は重要。記憶風化を危惧する一つの側面がこれ。 (2012.01.31. at 06:41:18)


被災地を語る言葉が、明るい絶望か、暗い希望にしか聞こえないやるせなさ。なぜ、絶望を語る口はすずやかで、希望を紡ぐ言葉が重いのか。 (2012.02.04. at 01:10:43)


「忘れはしないけれども、過剰な反応はしたくない」震災後、一年を迎えるにあたっての正直な気持ちかも知れない。物理的に騒ぐことは控えたいし、精神的にはフラッシュバックを誘導されるような状態には自らを追い込みたくもない。そういう思いは尊重されたいし、過剰な反応から身を守るすべも大事。 (2012.02.06. at 05:06:26)


一・二ヶ月前の報道であったと思うが、二年前のハイチ地震以後、いまだに50万人規模の避難生活・テント生活者がいるとのこと。元々政府機能が脆弱だったこともあるが、災害後に政治的・経済的に取り残された地域の現実がこれなのだろう。 (2012.02.06. at 05:42:36)


この半年、同じことを考えている。100年単位で振り返ると、三陸の津波からの復旧・復興は、2回とも同じパターン。高台移転など、新しい町作りの機運が最初に盛上がり、ある程度復旧すると急速に内外の熱が冷めて、それ以後の政策・財政支援も急減。このパターンからどうすれば逃れられるか。 (2012.02.06. at 06:12:56)


震災後、一年が経過したからと言って、今の状況が劇的に変わることは無いだろう。煽るマスコミや団体が「一年目の真実」を告げ、以下同様に「三年目」、「十年目」…の真実を語り続けるに違いない。えてして、状況の変化は目に見えないから、それに耐えねばならない現実から逃げられない。 (2012.02.06. at 07:46:08)


この一年、様々なボラや支援活動をされた方と意見交換する機会を得たが、直面する課題が複雑多岐だったため、例えば、物資支援・原発・地域復興・瓦礫処理、を挙げただけでも、様々な意見の組み合わせが可能だった。こちらには賛同できても、あちらは過激でついてけないなあ、という人がいたのも事実。 (2012.02.09. at 08:52:21)


震災以後、著名人のアホなツイートが物議を巻き起こすケースを何度か見てきた。そのような事態を招く人たちには、何か発言の傾向に共通点がありそうなんだけど、まだよくわからない。 (2012.02.10. at 02:19:59)


がんばれる人だけがんばればいい。その気持ち、がんばろう!を面と向かって言われると、辛い人がかなりいることを忘れちゃいけない。春休みに時間のできる学生諸君などは、特に気をつけてほしい。もうこれ以上頑張れないし、むしろ、東北の海や山を前にして、人間の頑張りの小ささを体感してください。 (2012.02.11. at 08:57:54)


これから一ヶ月は静かに情勢を見て、10年単位で考える東北地方への関わり方を探ってみようかな。 (2012.02.11. at 09:01:00)


仙台の街中だけを表面的に見ていると、地震なんてあったのか?と思ってしまうのは仕方ない。これが、ビルや高速道倒壊の目立った阪神・淡路大震災の時と大きく違う印象だろう。仙台の中心部の建築物が倒壊しなかったのは不幸中の幸い、とあらためて思う。 (2012.02.11. at 10:02:07)


宮城県図書館調査報告


宮城県図書館特別展「絆の証し」、今日から。震災以後収集の資料や新聞、写真を展示。避難所のチラシやポスター、「おぢゃとも」のようなミニコミ誌、等々。あらためて当時の雰囲気を蘇らせる貴重な震災の証言資料の数々。今後の収集にも弾みがつくよう、多くの皆様にご覧いただけますことを。 (2012.02.11. at 11:20:31)


宮城県図書館にて、黙祷 2012 02 11 (2012.02.11. at 14:46:04)


明治29年の津波は旧暦の5月5日に発生し、昭和8年の津波は3月3日に起きた。偶然とはいえ、子供たちの節句の楽しい笑顔が暗転したことを思うと、あまりにも哀しすぎる。 (2012.02.11. at 16:48:57)


昭和8年に津波が発生した時の大蔵大臣は高橋是清だったか。これもあらためて気が付いたが、仙台藩関係者というのも奇遇だな。今の財務大臣とはおおちが。。。 (2012.02.11. at 16:53:10)


宮城県による昭和8年の津波の報告書の巻末には、100ページにわたる被害統計表が載せられている。これらのデータはなんと、村の中の字(あざ)単位で集計されている。このデータの細かさは、町内会単位の防災教育に役立つと思うなあ。 (2012.02.11. at 17:02:07)


今日見た、宮城県の昭和8年津波の報告書。被災地写真を数十枚収録するが、不思議なことに、当時の茅葺き屋根の骨組みが比較的残っていて、ちょっとだけ高い敷地の家だと原形を留めている。つまり、今回の津波が比較にならないほど巨大だったということなのだろう。 (2012.02.11. at 23:07:14)


この津波報告書には、宮城県が設計施工したバラック(今の仮説住宅!)の設計図と現地写真もあった。間取りは、八畳一間に押入れ、台所、土間だけ。木造。材料は現地切り出しだった模様。 (2012.02.11. at 23:17:11)


(昭和8年津波)よく考えてみれば、当時は当たり前だったはずのことがいくつか。/緊急通信手段として伝書鳩が用いられていたこと。/東京での支援物資受付窓口が上野駅に置かれていたこと。/母親が「後片付けに全力を傾けられるように」被災地に私設託児所が設けられたこと。 (2012.02.11. at 23:36:04)

   宮城県図書館調査報告(了)