凡例


・2011年12月16日~2012年2月7日までの間にTwitterで呟いた、歴史学、科学史、大学での講義といった、アカデミックに関わる話題をまとめたもの。

・末尾の数字は呟いた日付。

・個人的なメモがほとんどの内容。出典は必要最低限の文献名のみを提示している場合が多い。

・誤字脱字、若干の訂正を施した箇所がある。



本文


所蔵史料から


江戸時代中頃の打ち上げ花火の筒の設置の様子。先日買った、花火の秘伝書から。木砲を使ってたのね… http://t.co/uRckywFz


江戸時代の花火。まだ金属の炎色反応を使った発色剤が無かったので、江戸の花火は黒色火薬のオレンジ系だけ… http://t.co/sp3lBi9B


江戸の花火2。こんな花火あったのか?と思うけど、花吹雪や飾りを仕込んだ仕掛け花火が主流だったようです。 http://t.co/Jzd6zcqy


以下、近世初期の軍学書から挿し絵写真を連投します。寛永11年、森田和泉守が伊勢の藤堂仁右衛門に授与した秘伝書「雲気之巻」より。敵陣から立ち昇る雲気を見て戦の勝機を判断するというもの。戦国の軍師たちはこういうことを言っていたと分かります。


雲気之巻1。こんな気が見えたら怖い。これが見えたら「攻めるな」とアドバイスあり。これ見えたのかな… http://t.co/CaQR63d2


雲気之巻・2。さらに絶句するのがこれ。一体、これは、マジ?と思う。これが敵陣に見えたら「急いで討て」とアドバイスあり。私なら迷わず逃げる。 http://t.co/3nVIlYOV (2011.12.15.)


戦国時代の軍学の実践って、こういう摩訶不思議なものだったんだろうなあ。かたや、鉄砲以後は、火薬の調合や飛距離の確定など、実験的精神も並行して現れる。だが結局、日本の砲術は戦術論にならず、精神論・神秘主義に取り込まれてしまった。


江戸時代の軍学で、ずば抜けて特異的なのは、やはり北条流。神秘主義的な側面は若干あるものの、オランダ伝来の技術をさりげなく取り込み、実践面を重視する。測量術を詳細に伝えることも、珍しい。 
(2011.12.16.)


古書あれこれ


これから神田へ、商売道具の仕入。嫌な客だけど、今回の分の支払いは来年度まで待ってもらうことになりそう…


神田での仕入作業終了。信濃の石川従縄の測量書は三上義夫の旧蔵書。他、天保年間の測量秘伝書はかなり古い内容の伝承で、貴重。和算書・江戸中期写を三点。ポケットサイズの測量折本一点。井本進旧蔵の天文書一点。


鹿島茂さんには到底及ばないが、古書はともかく買い続けなければいけない。特に写本の一点ものは、見つけた時に買わねばもう二度と手に入らない。江戸の科学史研究を仕事とする以上、この宿命からは逃げられない。自分が買い続けることで、古本屋さんも心得ていて、新しい資料を発掘してきてくれる。


もちろん、古い資料が売買され、個人が所有することに対する批判があることも承知している。研究者としては情報公開に努め、市場に出回った資料を購入し、最終的には公的機関へ収まる道筋を作るのは自らの責任である。購入はあくまで緊急措置という位置付け。己のものにして、己のものにあらず。


古書話のついで。色々な図書館に「○○文庫」と個人名を冠した文庫があり、多くの研究者が恩恵を受けている。今は重宝され尊敬されても、当人存命中は邪魔者扱いだったものが多い。居住空間と生活費を削られる家族の反発と和解して、今に残されたコレクション。利用者はそこまで思いを致してほしい。


これから本郷へ。東大内の某所から再発見された幕末・明治初期の海図調査。東大は史料の魔窟なんだよなあ。。 なぜか海軍省の機密資料なんかも某所地下書庫に眠ってるし。うーむ。。  
(2011.12.16.)


震災と記録保存


これから、震災の記録のアーカイブを作っていかなければならないけど、どんなモデルが必要かな。。。 中国清華大の張さんたちが立ち上げた、殷墟の発掘品をデータベース化するシステム、e-Archeologyあたりが参考になりそう。。


何を記録・資料として残すかという問題は、常にアーキビストや歴史家の悩み。大きな物は現場の遺跡から、小さな物は津波で流された生活用品。文字として見える文書に、文字としては見えない被災者の証言、ツイッターの呟き。その時代が切り取る断片を、いかにして後世にも意味ある物として伝えるか。


震災の記録を残す作業は、もちろん現代史の課題として既にたくさんの方が取り組み始めていると思う。災害の記録は、ともすると悲惨さや被害の甚大さを強調する嫌いがあったと感じているが、今後は、発災から被害状況、救援、復旧、復興までの流れを総合的に見通せるような視点が必要だと切に思う。


研究室の整理をしたつもりが、なぜかエントロピーが増加している事実。歴史家失格。


しかし、一方で、部屋の整理をする度に、昔コピーして読まなかった論文や資料などが出てきて得した気分にもなったりする。これも変と言えば変だが、歴史家職業は、そのような時に、価値ある物を発掘した気分になれる。。 あ、でも、それはやはりおかしい。。。 
(2011.12.17.)


明後日の水曜日、ある国内図書館でお手伝いをした電子展示が公開されるとのご連絡をいただいた。詳細は公開解禁となってからお知らせいたします。この原稿を書いている途中に震災が起き、ほとんど精神的な余裕の無いまま仕上げたものだけに、公開を迎えることができたのには感慨もひとしお。
(2011.12.19.)


江戸期の豪商が記した火事の事後処理の史料を見たことがある。見舞としてもらった物品が手拭い、タクワンの一本まで几帳面に記されている。小まめだなあ、と思ったが、いや、これはお返しの時に絶対必要なデータだ、と気付いた。もらった品物に相応しいお返し。この気質が現代まで?と思えた。
(2011.12.20.)


近世の生活で、互助の精神はかなり徹底されていたが、それは無償の物資提供ではない。貰った物に対して、次の災害時に見合った物を送り返す。家の格や経済力などが、そこには如実に反映される。このような災害時の贈答文化意識が、地域社会に残っているとしたら、ボラの実践にも注意が必要かも。
(2011.12.20.)


南三陸ではアイスバーンや圧雪のことを「たっぺ」というのか。仙塩地区では聞かない言葉かも。類似語としては、つららのことを「たろんぴ」または「たろんぺ」と言うが、これは古語の「垂氷」(たるひ)からきたのは明らか。たっぺもここからかな?…
(2011.12.20.)


本郷にて調査


今日、見た貴重資料。医学史では、鶚軒文庫から数点。曲直瀬道三の自筆写本と、養安院(曲直瀬氏)旧蔵の朝鮮版本養生書など。


他に見た貴重書。田中芳夫関係資料。江戸時代は本草書数点、明治初期は全国産物調査報告資料など。三陸沿岸の海産物の報告資料を見つけたので、この情報は復興関係で使えそう。例えば、浜ごとの昆布の特徴や方言が記されている。


今日見た貴重書。好問堂の蔵書目録。軍学書と暦算書を多数所蔵していたことは意外だった。しかも、蘭学系の書籍がかなり多い。それから、榊原芳野の明治初期の蔵書目録。和算書の『因帰算歌』を持っていたかとに仰天した。さすがである。 ( ̄人 ̄)  
(2011.12.20.)


国立国会図書館の電子展示「江戸の数学」( http://t.co/hwIfBfN8 )が公開されました。第1部1~6章と第2部を執筆いたしました。今回、電子展示としては初公開の和算資料も数点あります。ご笑覧、ご批正をいただければ幸いです。
(2011.12.21.)


本日最後の授業。。 今日は幕末の電信の話。将軍上覧の際に最初に打っモールス信号の日本文は「天地和合/鶴亀/和歌ノ浦/ 梅松竹/今日無事/隅田川/萬歳楽」だったらしい。しかし肝心の将軍は、同時に行われた大砲発射の方に夢中だったとか。あ、勝海舟も電信の研究させられてたんですよ、その時
(2011.12.21.)


同姓同名


作家の佐藤賢一氏と私は同い年なので、OPACでは「小説家の佐藤さんは「佐藤賢一(1968-)」、私の方は「佐藤賢一(1968- 科学史)」と」なっていることを展示でお世話になった国会図書館の方に教えられました。


作家の佐藤賢一氏が科学史ネタで小説を書かれたら、OPACの情報はさらに混乱するだろうなあ。。。。


ついでに、「佐藤賢一」さんという著者は、他に4人ほどいらっしゃるようです。(OPAC情報) うーむ。。。。 了
(2011.12.26.)


所蔵史料から


江戸の年末年始(1) http://t.co/zkyBNuNK


江戸の年末年始(2) この時期の様子を描いた一冊なんです。 http://t.co/vYgDkiIk  


江戸の年末年始(3) http://t.co/XtVdUhmk


江戸の年末年始(4) せわしない時期ですので、少しでも和んでいただければ。 http://t.co/y00detnY


江戸の年末年始(5) http://t.co/s102Uayy


江戸の年末年始(6) http://t.co/QyVASPjg


江戸の年末年始(7) http://t.co/ZtPocBcf


江戸の年末年始(8) http://t.co/UAoPE9Kp


江戸の年末年始(9) http://t.co/Gl8pnszL


江戸の年末年始(10) http://t.co/kfVbLpNo


江戸の年末年始(11) http://t.co/HU1Apr2O のんびり眺めてみてください。。。


江戸の年末年始(12) http://t.co/adLF05tv  もう少しおつきあいを。。。


江戸の年末年始(13) http://t.co/fCu69QBQ  これ、どこかの正月行事でしょうかね?。。。


江戸の年末年始(14) http://t.co/d4jlSXoe まさに冬、という光景です。


江戸の年末年始(15) http://t.co/jO30om3l
http://t.co/CD4KBukw


地域によっては正月の飾り物について、「一夜飾り」(大晦日に飾ること)を嫌うようですが、うちの実家ではまさに大晦日の夕方にしめ縄その他を飾っているなあ。。。 これについてはまだ周辺の状況を調べたことがなかったけど。 
(2011.12.30.)


関孝和あれこれ


来年こそは『関孝和全集』の原稿を仕上げねば、と決意だけは固く。締切を4年もオーバーしているので、岩波書店さんにも申し訳が立たなくなってきている。さすがに、京大M先生のように、授業が終って教室を出たら岩波の編集者が待ち構えていた、という伝説を凌駕するつもりは今のところ、ない。


数学者・関孝和は有名だけれども、歴史的な実像が今一つ描けない人物。(要は、史料がほとんど無い。)著作と言われるものも、よくよく調べると、講義録や後世の編纂である可能性が高いものばかり。文献学としての証拠を挙げる作業は、正直しんどい。。でもまあ、何とか固めよう。


関孝和の自筆と言われる免許状(巻物)が日本学士院にあって、国の重要文化財になっているが、これは関本人の物ではないと結論付けた。なぜなら「関孝和」の名前の後ろが破り取られているから。巻物が鼠や虫に食われて外側から破損するのは自然だが、内側だけ破れているのはいかにも不自然だろう。。。


ツイッターの中だけでなく、現実の社会でも、来年はさらに動いていかねばならない課題が山積である。気負わずやっていこう。……あ、『関孝和全集』、間に合うのか。。。 
(2011.12.31.)


http://t.co/ZoTtyhgF おめでたい絵を1つ。来年の幸せを願い。『宝暦大雑書万々歳』より。
(2011.12.31.)


芦東山記念館へ


さて、明日(いや、既に今日だ)の新幹線は、7時40分。まずは一関に行き、旧大東町の芦東山記念館で和算書の調査。記念館で「地域の宝」展示をされるとのことで、その助っ人調査。この一関市内S地区に保存されていた和算史料は思い出深い。


2007年、NHKのサイエンス・ゼロにチョイ役で出演した時、製作サイドから「資料調査現場を撮影したい」と頼まれ、急な取材ができて、いかにも日本の原風景がぴったりな、このS地区の史料を選び、同行取材してもらった。(この時の放映を私は見ていない。さすがに自分の姿は情けないので)


宮城県北から岩手県南にかかる地域は、江戸時代から明治にかけて、和算(算数)教育がものすごい密度で普及していた。ある町史編纂室の方から、「新しく調査したお宅からは、必ず和算書が出てきて困ってるんです。。。」と言われたこともある。私もしばらく、メシの種が尽きない。


宮沢賢治の作品のあちこちに「技師」という言葉が出てくる。今なら「エンジニア」という言葉になるのだろう。東北の山野を見る度に、ここで数十年前に活動した農林技師や鉄道技師たちの姿を思い浮かべる。賢治の描いた東北の風土と技師たちは、不思議な一体感を醸し出している。


今日の資料調査は芦東山記念館で。東山はこの地出身の近世中期の儒者。三宅尚斎・室鳩巣に師事。この時代にあって、刑罰は教育刑であるべきとの観点から死刑廃止を『無刑録』で主張。しかもこれを書いた東山本人は、藩校内での身分制撤廃改革案を藩主に訴えて怒りを買い、幽閉中の「罪人」であった。。


芦東山の無茶ぶりは、幽閉中の身でありながら「研究したいから京都行かせてくれ!」みたいな手紙を平気で藩上層部に対して出しているところ。仙台藩というのはこの当時、不思議なくらい学者に対しておおらかだったんだなあと思う。他藩だったらありえない措置。で、東山、漸く20年目にして幽閉解除。


東山は近隣住民から絶大な支持を得ていたらしい。あちこちに彼の足跡が残されている。彼の死後もその余沢は続く。あの高山彦九郎も、諸国行脚の途中、わざわざ遠回りをして芦東山の旧宅を訪問し、その肖像画などを拝している。(『高山彦九郎日記』第三巻にその記載あり。)これはこれですごい話だ。


芦東山旧宅を訪れたもう一人の著名人は近代郵便制度の確立者・前島密。幕末、彼は太平洋側から函館に向かう途中、財布を落としてしまい、旅費に窮してしまった。その時、「芦東山宅周辺は学問好きが多いから、何か教えれば旅費ぐらい稼げるだろう」と勧める人がいて、ここに行く決心をした。


さて、芦東山宅に着いた前島だったが、ちょうど春先で農繁期。誰も学問など教わりに来ない。さらに困った彼は、東山宅から先にある内野地区に赴き、そこで製鉄をしていた仙台藩関係者に会い、自分が持っていた蒸気機関の関係絵図を見せる。その見せ賃として旅費をゲットした彼は、無事函館に到着。


このエピソードがご縁で、いまだに芦東山と前島密のご子孫は、交流をされているとのことです。


芦東山記念館の近くを流れるのは「砂鉄川」。その名の通り、砂鉄がどっさり流れてくる。近世期、この上流には砂鉄を利用した製鉄施設があったとのこと。そう、金属と言えば、この地域は古代から砂金の取れることで有名。一関市内には、今でも砂金の取れる川筋があるとのこと。え?場所?それは秘密。


今日調査した和算史料。幕末~大正期、東磐井から気仙地方を活動範囲とした和算家菅原氏の残した史料。彼は、一関の著名な和算家・千葉胤秀の孫弟子。各地の門人の間を訪問教授して歩いた和算家である。現在の宮古市から気仙沼市あたりの範囲で、1400人近くの門人を教えていたとの記録を見つけた。


一関から気仙にまたがる地域は、なんと、昭和初期になっても和算塾が残っていた地域。なぜそんな前近代的で、古くさい数学がこの地域で残ったのか?理由は簡単。当時の義務教育は小学校だけなので、もっと学びたい知識欲のある農民・漁民は繁忙期を避けて、数学(和算)を和算塾で学んでいたのである。


明治以後の菅原が残した和算史料を見ると面白い。関孝和以来の和算的な数式の羅列の直後に、「西洋度量衡」としてヤード・ポンド法やメートル法の記載がある。かと思うと、世界地図の貼り込みやアルファベットの一覧、さらにはハングル(!!)までメモしてる。因みに、数学のレベルは大学初年級程度。


一関市博物館には、関流の勉強会(まあ、和算塾ですな)で昭和初期に実施された免許授与式の記念写真が保存されています。授与者は紋付き袴で、なかなかいかめしい雰囲気の写真です。 
(2012.01.09.)


地域の教育史


戦前の各地域での教育体制と和算の残存状況に関しては、和算教育のそれまでの地域での浸透状態、明治になってからの地域の経済状態(就学率)、他の教育機会の有無、知識の必要度の有無、等々が関わっていることは確か。他に教育機関が無くても、漢方医療系の塾が地域に残ったケースはないだろうな。

漢方医療の場合、国の制度との関連(西洋医学以外医師免許を与えない方針)、医学・医療そのものが職業訓練を目指さないで地域教育の一部として成立したかどうか。これらの点は、少なくとも和算の場合と条件が違っていたと思う。一般に医学塾は都会集中、高等教育機関化する傾向があったように見える。


国の制度・権力からはみ出たところで再生産されていた和算の知識というのは、ベタな言い方としての知識社会学ネタになるのかなあ。ただ、そこで教えられていた和算の内容が、国の制度、社会習慣を反映していた可能性は高い。 
(2012.01.10.)


ある日の講義


本日、二つ目の講義終了。元H社で半導体の研究員をされていた社会人学生さんを前にして、日本の戦後の情報産業の推移を話すという、自分で埋めた地雷を踏んで歩くような一時間がやっと終わった。キルビー特許って、サブマリン特許だったのね。。。。 汗


いやあ、まさに現代史の証言を伺える貴重な時間で、私の方が教わりました。。。。


これから、午後の最後の講義。幕末の西南雄藩(佐賀・長州・薩摩)の技術移転について話す。残念ながら、土佐藩にはほとんど事例がない。。。 話すといっても、自分が撮ってきた遺跡の写真をネタにして展開するわけですが。 
(2012.01.18.)


ふと思ったこと。歴史的に写真が出現したことで、俳句に現れる語感や語調は何かしら変化を受けたのかな。。。
(2012.01.12.)


今日は研究会で、ある短大の紀要論文で、戦後まもなくぐらいに出た一本の存在を教えていただいた。かなり古い測量道具・見盤の実地調査報告書。もし実物が現存していて、正確な年代確定ができば、もしかしたら江戸の測量術史はまた更新されるかも。。。
(2012.01.22.)


長崎にもしばらく行ってないなあ。。。 洋学研究の定番コースとしては、長崎 → 武雄 → 佐賀 → 熊本 → 鹿児島 と巡回・放浪したいところ。あ、平戸もだ。
(2012.01.23.)


ある日の講義


2つめの講義終了。。。お恥ずかしい限りですが、大学院博士課程の教養講義で、藤垣・廣野本を参照しつつ科学コミュニケーションネタを一席。しかも受講生の中にJSTに出向されていた方がいて、さらに冷や汗。でも「JSTのやっていた方針が今やっと納得できた」とのコメントを得て安堵。。。


学生が先ほど修論を提出し、ようやく、この一週間の怒濤の荒行が終わった。なかなかしんどかったなあ。それで、彼の修了後の行く先も何とかWの博士に決まり、こちらも安堵。さっき、合格結果が届いた模様。まあ、修論審査を通ってもらわねばどうしようもないが。


本日の講義終了。やれやれ。修論も出して、博士課程進学も決めたうちの学生のために今日はこれから軽く飲みに。それにしても、うちのような個人研究室、しかも理工系大学の傍系研究室に卒論から修論まで在籍し、しかも他大の博士課程に行ってくれるなんて、初めての経験だな。こちらも勉強になった。 
(2012.01.25.)


購入史料


これから本郷に向けて移動。本屋と史料編纂所へ。また何か出てきそうな感じ。


今日も本屋で数点、資料を入手。幕末の古地図3点。江戸近郊図・銅版全国図・彩色木版全国図。彩色図には貼付け折込みで蝦夷地・樺太・千島列島が描かれていた。


(購入資料)幕末の刊本で、大砲の砲弾の投擲表。和算書、貞亨4年版『改算記綱目』。これには関孝和に言及した序文が付いている。暦学書、正保版『ホキ抄』。安倍晴明が書いたとされるものだが、もとより伝説。この本を見つけたら必ず買うことにしているので購入。 
(2012.01.27.)


某所で見つけた天保10年旧暦8月1日の金環食の観測記録(コピー)です。 http://t.co/8KLFenfz
(2012.01.27.)


漁村と和算


そういえば、江戸時代の和算書が取り扱っていた射程を考えると、「地方算」(じかたざん)として農村経営を前提にした内容が圧倒的に多く、漁村経営に関わる内容がほとんど無い。農業(林業も)社会優位の発想がこういう所にも反映されているんだろうな。


近世の農村経営について更に思いついたこと。近世の経世家として著名な人たちは漁村を話題にしたかどうか。今手元に全集がないので著作タイトルだけ確認しただけでも、大蔵永常や二宮尊徳は農村だけを話題にしていたようである。別の側面では『農書』の出版は多数あったが『漁書』の類はどうだろうか?


色々発想が飛んでいるが、最近、近世の学術史で話題の「在村」という言葉。「在村蘭学」、「在村儒学」、「在村文化」など。これらも農村文化のことが無意識の内に議論の基軸になっているとしたら、漁村も包含した視野を再構築する必要がありそう。但し商人の多い港町の状況は別に考えねばなるまい。


江戸時代の状況を考えると、交換手段として米を設定し、これを基軸として全ての価値観を決定しようとしていましたから、これを外れてしまう生産活動はどうしても軽視される、あるいは度外視される傾向は必然的にあったと思います。食糧確保と経済活動が特異な形でリンクしていた結果とも。


今日は、ふと疑問に思ったこと、「近世の漁村を対象にした和算書がない」ことを呟いたところ、多くの皆さんから貴重な情報、アイディアをいただき、本当にありがたかった。この方面から、自分なりに新しい歴史研究の枠組みが生まれそうな予感がしている。


どうしても農村社会の和算資料を見るだけの作業に慣れていたので、漁村への視点は盲点だった。それもこれも、何度か被災地沿岸部を歩いたことで気がつかされたものだと思う。こういう方面の歴史も探索しておけば、被災地復興の材料になるかもしれない。 
(2012.01.28 - 29.)


今日古本屋から届いた数冊。伊勢の稲垣定穀が本多利明の口授を受けつつ筆写したという奥書を持つ『渡海新法』(文化元年)。これは洋学史でびっくりするような由来。それから、天保年間の測量に関する巻物。全然知らない系列の写本で悩む。阿蘭陀流であるのは間違いないのだが。。。も少し検討しよう。
(2012.01.30.)


調査と史料


今日はこれから本郷で調査し、午後は岩波書店で関全集の編集委員会。ようやく、『括要算法』の読み下しと現代語訳を形にしたところ。まだまだ先は長いけど。


本郷での調査終了。大田南畝筆写の『薩摩国風土記』を見た。タイトルと中身は全然違い、島津領の国境番所・沿岸の遠見番所への指令通達書の集成だった。南葵文庫から東大へ。


この他に、田中芳男の収集資料もパラパラ見た。田中という男は、全くもって訳のわからない収集マニアの博物学者。幕末から大正まで、彼の目に触れて心動かされた印刷物が、100冊以上のスクラップブックにびっしりと貼込まれている。これは科研を取ってでも公刊したい資料群・宝の山。


田中芳男が手当たり次第に集めた資料が参考になりそうなのは、今回の震災関係資料の収集方針。個人が集めた資料群はこうなることを見越して、組織的に集める段取りを設計できそうである。田中資料のどの一冊を見ても感じるが、圧倒される雑多な資料の情報量。現代ならばアーカイブ化できる。


今日神田で買った写本は「町医者に付八丁堀同心留書」。題だけ見て医学史?と期待したのだが、中味は何と「18禁」指定に近く仰天。調べたら『藤岡屋日記』のこの記事( http://t.co/SbJPJaL3 )の元ネタ資料と判明!!こんな事取調べてたんだ、昔の同心。。。同情【閲覧注意】


いやあ、さっき紹介した写本は私費で購入しておいてよかった。これを科研費で買ってたら、後世、あらぬ疑いを持たれていたかも。。。というのは冗談。一方、公費で購入したのは、幕末と明治初期の測量術関連書。一点には江戸時代の測量道具が記載され、もう一点には「鉛筆」の使用法が説明されていた。


今日、古本屋で見た本のタイトル。明治19年刊行、『人肉質入裁判』。


これは何かと思ったら、シェークスピアの『ヴェニスの商人』の翻訳だった。挿絵に出てくる人たちが、全て日本人顔していることも笑えた。。。。


あ、そうそう、さっきのシェークスピアの翻訳。訳者名は書いてあったけど、「原著不明」と奥書にあった。。。。 ええっ、それでいいのか???? 
(2012.01.31.)


講義あれこれ


午後の講義終了。ちょっと一息。よく考えてみたら、科学史専攻を除いて、理工系大学院の博士課程学生に科学史や科学コミュニケーションを教えて良いという科目を担当している人間は、国内ではごくわずかなんだろうなあ。博士課程にまで教養科目を課しているコース自体が少ないわけだから。


先ほどの続き。大学院博士課程向けに科学史関連講義をすると、やはりリアクションが多様で新鮮で、こちらも非常に勉強になる。(元々冷や汗かきながらの講義。。。)イメージとしては、経済や国際情勢や教育制度の話題を振ると、学生が各々のバックグラウンドを当てはめた発言として返してくれること。 
(2012.02.01.)


昨日神田で購入した測量術の資料。早速今日、本屋さんから送っていただいた。あらためて見ると、江戸時代中期まで使われていた「規矩元器」の組み立て図。蔵書印として「沼田藩永井保固蔵」とあった。上野国の沼田藩かな。これがなぜ明治初期と思しき製図の説明資料と付随して出てきたのか。同一出所?
(2012.02.01.)


トンデモ医学


学部1・2年の時は理科Ⅱ類という所にいたのだけど、医学部志望者も同じクラスに何人かいた。誰とは言わないが、その中にトンデモ医療を信奉してる人がいて驚いた。何百人かに一人の東大生は、トンデモを信じつつあれだけの受験を掻い潜って合格できるんだ、と変な所に感心してしまった。


功なり名をとげてから、トンデモに走る人もいるから、まあ、一概に言えるわけではないのだが。 
(2012.02.03.)


歌枕


歌枕に読み込まれて以来、東北はいつだって、遠くになければならない場所だったのだと思う。中央から。


歌枕といえば、江戸時代、末の松山とか野田の玉川の所在地を巡って、仙台藩じゃなくて盛岡藩の中にすべてあるんだ!と主張していた盛岡の学者の本があったはず。タイトル、思い出せない。別にいいじゃん、どこにあっても、と思ったけど。 
(2012.02.03.)


節分



http://t.co/JkV6a7Tb


(前ツイート) 和算書『勘者御伽双紙』(中根彦循・1743年)に描かれた節分の風景。「ことしは四十三くはねはならぬやくじゃ」と男。「もはやはがいたうてまめがくへぬ」と老人。http://t.co/RmQG9REe  
(2012.02.03.)


午前中は、関孝和著と言われている、ある作品の写本の系統を推定してみた。年紀の有無と文字の異同の前後関係を勘案すると、どうやら関が亡くなった後に作成された著作である可能性が俄然高くなった。ありゃりゃ。。。
(2012.02.04.)


調査史料


今日はこれから本郷で調査。午後は、学生の修論発表会。


今日も田中芳男のスクラップブック、『捃拾帖』を見てきた。幕末・明治初期の庶民資料から政府内部資料まで、一つにまとめてる資料群はこれぐらいだろう。何とかして、皆で使える形で公開できないものかなあ。アイディアはあるのだが、問題は資金だな。科研を出すか。


今日見た、田中芳男のスクラップブックの貼込資料あれこれ。(明治初期)青森県産ブランデーのラベル、陸前雄勝産硯の販売所ラベル、山梨産白ワインのラベル。上野公園開設時の軍楽隊(陸軍・海軍別々の)演奏プログラム。浜離宮午餐会のメニュー。


(田中資料)大久保利通の50日法要の際の粗品進呈状。新橋駅開業時の政府関係者の行進隊列図。大木喬任邸での晩餐会招待状。田中宛・佐野常民発信電報、などなど。一点一点は全国探せばでこかにありそうな資料であるが、これだけの物を保存しておいた田中という男は、まさに化け物である。 
(2012.02.07.)