「おんな城主 直虎」人物事典 総集編(最終回) | 戦国未来の戦国紀行

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日本の戦国時代について

<写真1:神宮寺川に架かる橋から見た三岳山>

 

 

【井伊家】

《宗家》

20代 井伊直平(1479/1489-1563)─正室:井平安直の娘

21代 井伊直宗(?-1542/1546/1554)─正室:井平直郷の娘

22代 井伊直盛(1506/1526-1560)─正室:新野親矩の妹

次郎法師/井伊直虎(?-1582)

《傍流》

井伊直満(?-1545):正室:鈴木重勝の娘

23代 井伊直親(1535-1563)─正室:奥山ひよ(奥山朝利の娘)

24代 井伊直政(1561-1602)─正室:徳川花(徳川家康の養娘)

 

【井伊庶子家】

《奥山家(赤佐家)》

7代 奥山親朝(?-1497)─正室:?

8代 奥山朝利(?-1544/1561/1563)─正室:?

9代 奥山朝宗(?-1560)─正室:?

《中野家》

3代 中野直由(?-1564)─正室:奥山親朝の娘(直親の妹?)

4代 中野直之(?-1605)─正室:奥山朝利の娘

 

 

井伊家の宗主の系図「藤原鎌足・・・藤原共資─井伊共保・・・直平─直宗─直盛=直親─直政・・・」を完成させる場合、

①「直平─直宗─直盛=直親─直政」(「=」は養子)は動かせない。(直宗には謎が多い。没年を1554年とする説がある。1555年に直親が信州から帰ったのは、この直宗の死が要因であった可能性がある。)

②直政以降の宗主は、はっきりしている。

③藤原鎌足から藤原共資までの系図は、江戸時代に、九条家と近衛家に頼んで制作していただいた。(井伊氏を藤原氏ではなく、三国氏とする説や、横地氏とする説もある。)

①②③から、問題は井伊共保と井伊直平をどう結ぶかに絞られる。

一説に、嫡流(「■直」と名乗る太郎家)は、長期間の九州遠征で滅び、留守を守っていた傍流(「直■」と名乗る次郎家)が新たに宗主になったという。

系図によっては、井伊道永の長男・道勝(井伊家宗主)が九州で討ち死にして絶家となり、井伊谷に残って宗良親王を擁した次男(あるいは、藤原共資の子孫ではなく、藤原宗信の子孫)・道政の子孫が宗家になったとする。

 

 

【家老職】

《井伊家筆頭家老》

26代 小野和泉守政直(?-1554)─正室:?

27代 小野但馬守政次(?-1569)─正室:中井直重の娘

《今川家から井伊家への目付家老》

今川庶子家:新野左馬助親矩(?-1564)─正室:奥山親朝の娘

《井伊直満の家老》

勝間田(今村)藤七郎正実(?-1573)─正室:?(離縁)

 

【龍潭寺住職】

開山 黙宗瑞淵(1463-1554) ※1532年道号授与

ニ世 南渓瑞聞(?-1589) ※1551年道号授与

三世 傑山宗俊(?-1592) ※1556年道号授与

四世 悦岫永怡(?-1622) ※伝承では織田信長の子

五世 昊天宗建(?-1644) ※武芸(長刀と弓)の達人

・・・

九世 祖山法忍(1672-1740) ※油田の尾藤家出身

・・・

 

 

【今川家】

《宗家》

9代 今川義元(1519-1560)─正室:定恵院(武田信虎の娘)

10代 今川氏真(1538-1615)─正室:早川殿(北条氏康の娘)

《庶子家》

関口親永(1518-1562)─正室:今川義元の養妹(井伊直平の娘?)

関口氏経(?-?)─正室:? ※親永死後の関口家宗主

 

 

【井伊領】(井伊荘、井伊保、井伊谷27郷)

 

<地図:井伊領(大河ドラマ「おんな城主 直虎」での設定)>

 

 

遠江国(『倭名類聚鈔』)

・浜名郡:湖西市+浜松市北区三ヶ日町

・敷知郡:旧浜松市街(経済の中心

引佐郡(京田・刑部・渭伊・伊福郷)

麁玉郡(三宅・碧田・覇田・赤狭郷)

・長田郡→長上郡・長下郡

・磐田郡:国府所在地(政治の中心

・山香郡

・周智郡

・山名郡

・佐野郡

・城飼郡→城東郡(高天神城の東)

・榛原郡

 

※「井伊領」=引佐郡(京田・刑部・渭伊郷)+麁玉郡(三宅・赤狭郷)

 

井伊荘(『荘園志料』)

上都田、下都田
上刑部、中刑部、下刑部
前山、祝田、石岡、瀬戸、鷲沢、三嶽、花平、兎荷、滝沢、川名、久留女木、澁河、別所、四方浄、田沢、梅箇平、的場、狩宿、矢沢、黒田、井平、田畑、奥山、杼窪、黒淵、白岩、東牧、横尾、神宮寺、井伊谷、金指、五日市場、広岡、井小野

 

※「井伊領」=井伊荘+麁玉郡(三宅・赤狭郷)

 

※「井伊領」=井伊保(「保」とは、郡郷の垣根を越えた行政区分)

 

「井伊領」の地図を作る場合、「井伊領」=「引佐郡」であれば、簡単に制作できるが、ここで2つの問題がある。

①引佐郡伊福郷(気賀など)は井伊領なのか?

②麁玉郡の三宅郷と赤狭郷は井伊領なのか?

※上の地図では、2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」の設定に従い、①伊福郷(気賀など)は井伊領ではなく、②麁玉郡の三宅郷と赤狭郷は井伊領であるとして制作している。

 

①気賀については、徳川家康が井伊谷三人衆に出した起請文に井伊領とは別に書かれているので、井伊領ではなく、自治村(自治都市・堺のミニ版)、日本版梁山泊(浪人の集合場所)だと考えられる。

②三宅郷については、引佐郡の式内・三宅神社の元宮があり、赤狭郷については、井伊家庶子家の赤佐氏の本貫地であり、筆頭家老の小野家の本貫地があるから井伊領なのだという。しかし、式内・三宅神社は伊福郷の屯倉神社(現・屯倉水神社)の可能性が高い。赤佐氏については、墓や赤佐氏居館が横尾にあるので、「赤佐は横尾の古称」とする学者もいる。(そもそも赤佐氏が平野部の赤狭郷を捨て、山間部の奥山へ移住して「奥山氏」と改姓した理由が分からない。)小野氏については、本家はずっと赤狭郷小野にいて、井伊家の家老になったのは井伊領内に移住した分家である。以上のことから、麁玉郡の三宅郷と赤狭郷を井伊領に入れない学者もいる。(麁玉郡の三宅郷と赤狭郷を井伊領に入れてしまうと、飯尾氏領が南北に分断される。)

 

 

【年表】

 

1545 井伊直満誅殺。亀之丞信州へ。

1555 亀之丞帰国。元服して直親と名乗る。

1560 井伊直盛、桶狭間で死亡。

1561 井伊直政誕生。

1563 井伊直親誅殺。

1563 井伊直平死亡。

1568 徳川家康遠江国侵攻。

1573 武田信玄井伊谷侵攻。龍潭寺炎上。

1573 室町幕府滅亡。

1575 虎松、家康に出仕し、万千代と名乗る。

1582 本能寺の変。

1582 井伊直虎(祐圓尼)死亡。

1582 万千代、元服して直政と名乗る。

1585 松下ひよ(井伊直政の実母)死亡。

1600 関ヶ原の戦い。

1602 井伊直政死亡。

 

以上です。

半年間お付き合い下さり、誠にありがとうございました m(_ _)m