【『麒麟がくる』関連本③】 橋場日月『明智光秀 残虐と謀略 一級史料で読み解く』 | 戦国未来の戦国紀行

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「■光秀はなぜ嫌われたのか?

 明智光秀ほど、近年になって急速に評価が変わった武将はいないだろう。主君を奇襲し、弑逆(しいぎゃく)した卑怯者(ひきょうもの)だったのが、パワハラ上司から不当に扱われ、ついに堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れた悲劇の智将として描かれている。

 しかし、その見方はかなり物語(フィクション)的といわざるを得ない。日記、手紙、公的文書など一級史料に見る光秀は、これぞ戦国の乱世を渡る武将といった猛々(たけだけ)しさだ。他者への同情や感傷の類(たぐい)は一切無く、自身や家の出世栄達(しゅっせえいたつ)のためには相手を容赦なく裏切り、蹴落(けお)とし、財産を奪い、血を流す。そのため周囲から嫌われていた。

 つくられた虚像が一人歩きして固定化されないうちに、原点に返ることが本書のテーマである。」(本書カバーの紹介文)

 

 

「明智光秀=謀反人」(主君殺しの殺人犯)であるのに、近年は「明智光秀=実はいい人」(いじめられたので殺した)という同情&擁護発言が多い。また、大河ドラマ『麒麟がくる』では、主人公として「超いい人」に描かれそうなので、今のうちに「それは違う。実際は、残虐で、謀略家である」と史実を記して警鐘をならした本である。

 

※昔は豊臣秀吉が1番人気だったという。織田信長の人気が上がったのは安部公房のおかげで、德川家康の人気が上がったのは山岡荘八のおかげだという。「謀反人・明智光秀」の再評価が始まったのは、吉川英治が『新書太閤記』を書く時に、滋賀県知事(当時)・近藤壌太朗が、自身の研究を示して、「明智光秀のことを悪く書かないように」と要請してからだという。時代小説には創作部分が多いが、まるでその場にいるかの如き迫真の描写に、史実だと思い込んでしまう読者が多い。特に著者が大先生の場合は、小説の影響力が大きい。TVドラマ化されたら尚更である。

 

筆者の主張は、「大河ドラマが描く“若い頃の明智光秀”はホワイトで、織田信長に出会ってブラックになった」かと思ったら違った。大河ドラマで描かれる“若い頃の明智光秀”は、この本に描かれていない!

 

──それは“若い頃の明智光秀”の一級史料が無いのであろう。

 

と思ったら、そうじゃなかった。

 

大河ドラマ『麒麟がくる』では、「“若い頃の明智光秀”と父親代わりの斎藤道三との交流」が中心となる。私は、「斎藤道三は敵であったので交流は無かった」と主張したいのであるが、橋場日月氏の主張は・・・

 

明智光秀の没年は「本能寺の変」の天正10年(1582年)として、生年については、

 

①永正13年(1516年)生まれ(『当代記』)

②大永6年(1526年)生まれ(『綿考輯録』)

③享禄元年(1528年)生まれ(『明智軍記』)

④天文9年(1540年)生まれ(咲村庵『明智光秀の正体』)

 

と諸説ある。(通説は③説の享年55である。)橋場日月氏は、咲村庵氏の説を一応支持しながらも、「もっと若い、天文10年以降生まれなのでは?」としている。つまり、この本に、“若い頃の明智光秀”について(斎藤道三との交流があったかどうかについて)書いてないのは、橋場日月氏にとって、“若い頃の明智光秀”とは、織田信長に出会った頃の明智光秀のことだからである!

 “若い頃の明智光秀”の一級史料が無い理由として、明智光秀は明智氏ではなく、明智氏の滅亡後に「明智氏」と自称したから(若い頃は「明智」ではなく、別の名前だったから)一級史料が無いとする説があるが、“若い頃”と考えられている年代には、まだ明智光秀は生まれていなかったから一級史料が無い?

 

 「明智光秀=天海説」があるが、否定されている。その理由は「明智光秀が天海なら、天海の享年が100を越えるからあり得ない」であるが、橋場日月氏がいうように、「天文10年以降生まれ」であれば、100を越えない!

 

 

※参考記事:「橋場日月の信長マニア」(『iRONNA』)
https://ironna.jp/search/tag/%E6%A9%8B%E5%A0%B4%E6%97%A5%E6%9C%88%E3%81%AE%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2