日時:平成30年11月3日(土・祝)13時開場 13時30分開演
会場:大垣市上石津農村環境改善センター
演題:「光秀の実父は上石津多良の住人 山岸信周 そのすべて」
講師:田中豊氏
・昭和14年1月20日生。愛知教育大学数学科卒。元・一宮市立北方中学校校長。
・一宮市エリアのケーブルテレビICC『デイリーショット』で、ー宮市・尾西市・木曽川町の文化・歴史を紹介する。
・現在は、岐阜市高田在住の郷土史家。歴史伝承フォーラム代表。
参加費:300円
主催:上石津まちづくり協議会
後援:大垣市、大垣市教育委員会、大垣観光協会
※中日新聞「明智光秀に縁、上石津の住民組織が3日に歴史講座」
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20181102/CK2018110202000044.html
※古文書
①『明智氏一族宮城家相伝系図書 全』
・明智光春の嫡子・宗俊、「三宅」→「宮城」と名乗り、揖斐川町桂に蟄居。
・出口欽三氏蔵。東京大学史料編纂所の写しが公開されている。
・正式名称は『清和源姓美濃国住土岐家随一之連枝明智氏一族宮城家相傅系圖書』。
・田中豊『明智氏一族宮城家相傅系圖書 全』(歴史伝承フォーラム)、¥600.。
②『明智氏血脈山岸家相伝系図書』
・安国寺秘蔵(公開不可)。
・安国寺(熊本市中央区)は、蒲生秀行の菩提寺・弘真寺の後身寺で、蒲生秀行や荒木村重の供養塔がある寺。住職の明巌梵徹の正体は、田中先生は、『明智氏血脈山岸家相伝系図書』の「某 童名秀壽丸。号三宅藤兵衛。妾腹の男也」だと言っておられましたが、『明智氏一族宮城家相伝系図書 全』の「某 天正4年生。母、光秀嫡女」でしょうね。
・正式名称は『清和源氏姓美濃国住土岐家之一族明智氏血脈山岸家相傅系圖書』。
③『明智光秀公家譜 古文書』(林則夫氏蔵)
・明治14年6月13日の300回忌の時に②を写真撮影して制作した写本。林氏が5年程前に岐阜の方から譲り受けたという。
・内容は②と全く同じで公開可能。明智憲三郎氏が「非公式流布本」と呼んでいる写本と思われる。
④『明智光秀公家譜 覚書』(林則夫氏蔵)
・②=③から(自分にとって必要な部分だけを)抜粋した覚え書き。林氏が③とセットで5年程前に岐阜の方から譲り受けたという。公開可能。
⑤田中豊『明智光秀公家譜古文書』(歴史伝承フォーラム)
・②=③では、明智光秀と島津家の関係が書かれた1枚(2ページ)が抜き取られている。その抜き取られた部分が④にあったので、②=③の欠落部分を④で補完して発行。¥600。
●田中豊『古文書に見る天皇制を救った武将 明智光秀の事』(歴史伝承フォーラム)
・①と⑤から明智光秀関連部分を抜粋し、山岸氏関連記事を追加。
・田中豊氏の講座・講演会のテキストとして使われる。¥300。
http://www.city.ogaki.lg.jp/0000042892.html
http://www.city.ogaki.lg.jp/0000042893.html
【田中先生に対する疑問】
1.『明智氏一族宮城家相伝系図書 全』と『明智氏血脈山岸家相伝系図書』を信用しすぎ。
明智光秀の出自が載ってるのはこれしかないので使うのであるが、もし偽文書であれば使ってはいけない。この2つの古文書の信用性が疑われているのは、次の点。
①「明智光秀の実父・山岸信周」の名が他の古文書にない。(「岸信周」「山岸光信」ならある。)
②多良には山岸信周の多羅城がない。(「未発見なだけ」として、上石津まちづくり協議会が所在地を探るイベントを実施するという。時多良荘は伊勢神宮多良御厨、後に北朝方の土岐島田氏領になっており、南朝方の山岸氏がいたとは考えにくい。また、多良には4つの城跡があるが、関氏や土岐島田氏の居城と居館であろう。山岸宗家の本拠地は多良郷ではなく、桂郷や伊川郷である。)
③他書では、明智光秀の母をお牧の方、妻を妻木煕子とするが、同書では、母を美佐保の方、妻をお牧の方(妻木牧)とする。
2.細川ガラシヤは多良で生まれ、娘に「多羅」と名付けた。
これは史実を越えて、講演場所である多良の住民への過剰すぎるリップサービスである。
明智光秀の妻子がいたのは、伊川郷の山岸屋敷、あるいは、桂郷の山岸光信屋敷であろうが、多良の多羅城であったとしても、夫・明智光秀が諸国武者修行で不在なので、子が生まれるはずがない。
『明智氏血脈山岸家相伝系図書』に、
・弘治2年9月26日 明智城落城。実夫・山岸信周のもとへ。
・弘治3年1月、妻子を山岸信周に預けて諸国武者修行に出発。
・永禄5年2月20日、帰国。越前国へ。
・永禄7年1月11日、細川ガラシヤ誕生。
とある。『明智氏血脈山岸家相伝系図書』を信用すれば、細川ガラシヤは越前国生まれである。また、通説では永禄6年生まれである。
※細川ガラシヤの娘は3人で、長女が「長」、次女が「多羅」、三女が「萬」である。