【『麒麟がくる』人物事典⑪】織田信長、足利義昭を擁して上洛(『信長公記』) | 戦国未来の戦国紀行

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公方様御頼み百ケ日の内に天下仰せ付けられ侯事
(『信長公記』首巻(織田信長の誕生から上洛まで)の最終話)

 

一、明くる年の事、公方・一乗院殿、佐々木承禎を御頼み侯へども、同心なく、越前へ御成り侯て、朝倉左京大夫義景を御頼み侯へども、御入洛御沙汰中々これなし。さて、上総介信長を頼み、おぼしめすの旨、細川兵部大輔、和田伊賀守を以て上意侯。則ち越前へ、信長より御迎へを進上侯て、百ケ日を経ず、御本意を遂げられ、征夷将軍に備へられ御面目、御手柄なり。

 さる程に、丹波国桑田郡穴太村のうち長谷の城と云ふを相抱へ侯赤沢加賀守、内藤備前守与力なり。一段の鷹数奇なり。或る時、自身関東へ罷り下り、然るべき角鷹二連を求め、罷り上り侯刻、尾州にて、織田上総介信長へ、「二連の内、何れにても、一もと進上」と申し侯へぱ、「志の程感悦至極に侯。併し、天下御存知の砌、申し請けられ侯間、預け置く」の由侯て、返し下され侯。此の由、京都にて物語り侯へぱ、「国を隔て、遠国よりの望み、実らず」と申し侯て、皆々笑ひ申し侯。然るところ、十ケ年をへず、信長御入洛なされ侯。希代不思議の事どもに侯なり。

 

【現代語訳】 翌・永禄11年(1568年)、将軍に就こうとした足利義昭は、佐々木承禎(六角義賢)に頼んで上洛しようとしたが、意見が合わず、越前j国(福井県)一乗谷へ行かれて、朝倉義景を頼んだが、上洛までは中々至らなかった。そこで、織田信長を頼んで上洛しようとして、細川藤孝(後の幽斎)、和田惟政を使者として、上意(足利義昭の思い)を伝えると、すぐに越前国へ、織田信長からの使者が来て、100日も経たないうちに本意(上洛したいという願い)が叶い、足利義昭は、征夷大将軍に就任して面目を保った。これは、織田信長の手柄である。

 そういえば、以前、丹波国桑田郡穴太村(京都府亀岡市曽我部町穴太)の穴太城の城主・赤沢加賀守義政(内藤備前守宗勝(松永久秀の弟・松永長頼)の与力)は、人一倍鷹が好きであったが、ある時、自ら関東地方まで下って優れた鷹を2羽求め、上る途中、尾張国で織田信長に会い、「2羽のうち、どちらか1羽を差し上げる」と言ったことがあった。この時、織田信長は、「お志(こころざし)は誠にありがたいが、天下を取った時に頂くので、それまで預けておきます」と言い返した。この話を京都でして、「京都から尾張国までは遠いので、上洛は出来ないだろう」皆で笑ったという。ところが、それから10年を経ずして、織田信長は入洛したのである。世にも不思議(不可思議)な事である。

 

【解説】 「足利義昭を擁しての上洛」を都に近い佐々木氏(六角氏)も、小京都・福井の朝倉氏も果たせなかったが、織田信長は、いとも簡単に、連絡を受けてから100日以内にやってのけた。この時、越前国と尾張国を行き来した使者は、細川藤孝と和田惟政だとあるが、細川藤孝と明智光秀(細川藤孝家臣? 朝倉義景家臣?)だという。織田信長の正室・帰蝶は、明智光秀の父の妹と斎藤道三の娘であるので、明智光秀が使者に選ばれたのだという。その真偽はともかく、明智光秀は雄弁な外交官だったという。

 赤沢義政が「田舎者。上洛できるはずがない」と言ってから10年以内に、織田信長は上洛を果たした。オオタカの寿命は11年。かの鷹は、なんとか生きていた?

 

【妄想】 明智光秀は、六角義秀(正室は織田信長養女の千代君)に仕え、「光秀」の「秀」は、義秀の偏諱だという。やって来た足利義昭と意気投合し、家臣となって朝倉氏の一乗谷への道案内をしたのだろうか?

 突然、丹波国桑田郡の話が出てきたが、丹波国桑田郡は、細川藤孝家臣・明智光秀が住んでいたとされる土地である。(領地があっただけで、実際は、和泉国に住んでいたと思われる。)

 史料のあちこちに謎の扉を開く鍵が落ちているが、その鍵のほとんどが偽物である。本物を見つけ出して、真実の扉を開きたいものである。