最後の沼田藩主・土岐頼知(ときよりおき) | 戦国未来の戦国紀行

戦国未来の戦国紀行

日本の戦国時代について

 

 

  本国美濃

    元高35000石

    現米1511石

    禄券63584円77銭7厘

従5位 土岐源頼知

 応慶3丁卯年4月16日家督(※「慶応」の誤り)

 内室 松平豊前守信義女

 邸 東京芝区葺手町26番地

 家扶 杉戸介昭/小倉入道

            大徳寺派

 葬地 品川東海寺中春雨庵

 

摂津守頼光朝臣孫治郎丞国房4世美濃守光衡、濃州土岐郡に住し、因て氏と為す。曾孫土岐伯耆守頼貞男明智九郎頼基11世土岐兵部大輔定明、天文21年濃州没落時討死。其男愛茶丸時に2歳、母方伯父菅沼常陸介に養われ、菅沼藤蔵と号す。14歳時、東照公に仕へ、数度軍功を顕し、従5位下に叙し、土岐山城守と号す。

 

 本居城 上野国利根郡沼田

 旧知 沼田藩事

 

※鈴木真年『華族諸家伝』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780625/108
 

 

《明智氏系図》

 

清和天皇(陽成天皇?)…源頼光-頼国-国房-土岐光衡…①土岐明智頼基-②頼兼〔頼重〕-③頼篤-④国篤-⑤頼秋-⑥〔弟〕頼秀-⑦頼弘〔頼高?〕-⑧頼定-⑨頼尚-⑩頼明-⑪定明-⑫明智土岐定政-⑬頼顕(→〔弟〕定義)…(沼田藩主家)

 

 

 土岐氏は、摂津源氏・源頼光の後裔(遠祖は清和天皇と源頼光)の清和源氏で、源頼国の6男・美濃七郎国房を祖とする「美濃源氏」でもある。源光衡が、美濃国土岐郡に移住して「土岐氏」と称したのが始まりだという。「土岐明智氏の祖」は、土岐頼貞の子・頼基である。土岐明智11代宗主定明は、天文21年(1552)6月、美濃守護(土岐宗家)・土岐頼芸と家臣・斎藤道三の争いに乗じた弟・定衡によって殺害された。この時、嫡男・愛茶丸(「愛菊丸」とも。天文20年(1551)生まれで、数えで2歳)は、外祖父の菅沼定広を頼って、三河国菅沼郷(愛知県新城市)へ逃げた。(菅沼氏とは、菅沼郷に移り住んで「菅沼氏」と称した土岐氏である。)母(菅沼定広の娘)は、奥平貞勝と再婚したので、愛茶丸は、伯父・菅沼定仙の養嗣子となり、藤蔵(後に元服して菅沼定政)と名乗った。永禄7年(1564)、徳川家康に仕え、「姉川の戦い」をはじめ、徳川家康の主な合戦に参戦して武功を挙げ、天正10年(1582)、旧武田領(甲斐国巨摩郡切石)に1万石を与えられて大名となり、土岐明智12代宗主として、明智定政と改名した。その後、土岐氏の再興が許されると、土岐氏の宗主となって土岐定政と名乗った。慶長2年3月3日(1597)に47歳で死去した。長男・土岐頼顕が早世していたので、次男・定義が継ぎ、子孫は沼田藩主を歴任し、沼田藩土岐家15代・土岐頼知(嘉永元年(1848。天保13年(1842)とも)~ 明治44年(1911))の時に明治維新を迎えた。

土岐頼知
正室:松平信義の娘・萬千子

継室:白石五郎八の娘・八重

・江戸幕府での官位は従五位下隼人正。
・明治44年(1911)死去

・墓所:萬松山東海寺春雨庵(現在の春雨寺)

・家:芝区葺手町(現在の虎ノ門)

 

 

「明智系図」の中には「明智光秀」の名がない。

それで学者は、明智光秀は、

①明智氏ではないが、仕官の時に「明智」と自称した。

あるいは、

②明智氏ではあるが、分家であり、本家の系図には載っていない。

と推測している。

 

 ──この「明智系図」はどこかおかしい。

 

そう、明智定明と明智定政には「頼」も「光」もない。

(明智定政の長男は頼顕だが、次男は定義である。)

「定」は菅沼氏の通字である。

 

③明智光秀は謀反人であるので、系図から名が消された。

 

実は、明智定明の家臣・森秀利の証言がある。

明智頼明には3人の子がいて、

・長男:土岐定明(土岐郷を領す。)

・次男:遠山定衡(遠山郷を領す。)

・三男:明智光秀(明智郷を領す。実は養子)

だというのである。土岐頼芸が斎藤道三に追われて土岐氏が滅亡したので、明智定明が継いで土岐郷に住み、弟たちには遠山郷と明智郷に住むよう命じたという。明智光秀は若かったので、稲葉日野守に後見(補佐)を頼んだという。同時代の人による証言とはいえ、信じがたい。(そもそも「美濃守」なら聞いたことがあるが、「日野守」なんて知らない。)