【『麒麟がくる』紀行⑫】明智光秀生誕地?「堂洞城」(美濃加茂市) | 戦国未来の戦国紀行

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日本の戦国時代について

時代村と言えば、

・歴史公園えさし藤原の郷

https://www.fujiwaranosato.com/

・伊勢・安土桃山文化村→伊勢安土桃山城下街

http://www.ise-jokamachi.jp/

・日光江戸村

http://edowonderland.net/

・博物館明治村(愛知県犬山市)

http://www.meijimura.com/sp/

・日本大正村(岐阜県恵那市明智町)

http://nihon-taishomura.or.jp/

・日本昭和村→ぎふ清流里山公園(岐阜県美濃加茂市)

https://satoyama-park.gifu.jp/

が有名ですね。(近い将来、「日本平成村」もできるのでしょうか?)

 

 犬山城からはちょっと離れた博物館明治村、明智城がある日本大正村、堂洞城近くのぎふ清流里山公園は、名古屋のアマチュアカメラマンさんが、名古屋のアマチュアモデルさんを連れてロケ撮に行く定番スポットです。

 

 

<博物館明治村>

 

<日本大正村>

 

<ぎふ清流里山公園(旧・日本昭和村)>

 

 

※「宇宙と大地ガールズ」の運営は「宇宙と大地プロジェクト実行委員会」(岐阜新聞と日本一ソフトウェア)で、活動拠点は美濃加茂市ではなく、航空宇宙産業が盛んな岐阜県各務原市です。

 

 ──「各務原」って読めますか?

 

 ほとんどの方は「かがみはら」と読みますが、正式には「かかみがはら」です。しかし、駅名は「かがみがはら」、高校名は「かかみはら」で、「4つの読み方がある地名」として有名です。

https://www.nagoyatv.com/dode/program-corner/research/entry-10415.html
 古代では、鏡作部が住む鏡の生産拠点でしたから、「かがみがはら」が正しいと思います。(「原」(古くは「野」)は「台地」の意味ですので「各務原台地」という言い方は、おかしい。ちなみに『信長公記』には「加賀見野」とある。)

 尾張国を制した尾張氏は伊福氏(伊福部)と行動を共にしていました。伊福氏は鋳物師ですから、銅鐸、鏡、鐘、後世では日本刀や陶磁器(瀬戸物)を作ったことでしょう。尾張国三宮・熱田神宮のご神体の草薙剣は、スサノオがヤマタノオロチの体内から取り出したと大和政権によって変えられました(だから『出雲国風土記』には掲載されていません)が、極秘伝では、草薙剣は、伊福氏の本拠地である伊吹山にあった剣で、ヤマタノオロチが守っていたとされています。(日本武尊の死因は草薙剣を奪われた伊福氏の反逆でしょう。)また、尾張国一宮・真清田神社では、「ご祭神(尾張氏の祖・ニギハヤヒ)がヤマタノオロチに乗ってきたので、尾張国は8郡になった」としています。「乗ってきた」ということは、「制御していた」「管理していた」ということであり、尾張国を8郡に分け、8つの頭(8人の郡司)を連れてやってきたことの比喩でしょう。

 

 

 加治田城(岐阜県加茂郡富加町加治田)や堂洞城(岐阜県加茂郡富加町夕田)は、お城マニアの間では、「反信長の城」「織田信長中濃攻略戦の舞台」として有名です。加治田城主は佐藤忠能→織田方の斎藤利治、堂洞城主は岸信周です。所在地は、可児の明智城と木曽川を挟んで線対称の位置になります。

【参考サイト】富加町「加治田城と堂洞城」

http://www.town.tomika.gifu.jp/tourism/rekishi/shiro.html

 

※加治田城主・佐藤家の分家には、明智(恩田)孫十郎直経の家・恩田家があります。

※「本能寺の変」当時、斎藤利治(としはる。織田信長家臣。斎藤道三の末子)は佐藤忠能の養子となって加治田城主となっていましたが、「本能寺の変」の直接的な原因を作ったとされる斎藤利三に「本能寺の変」直後の二条新御所の戦いで討たれました。

 斎藤利堯(としたか。斎藤道三の子)は、明智憲三郎氏が明智光秀生誕地と推測された福光郷の領主となっており、「本能寺の変」の時は、岐阜城の留守居役として福光館に入り、その後、岐阜城に入ると、中立の立場をとりました。イエズス会宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスの報告(「1583年2月13日付ルイス・フロイス書簡」)に「岐阜において太子の宮殿が掠奪され、諸侯の一人が城を占領したが、いずれに味方するか発表しなかった」とあるのは斎藤利堯のことでしょう。

 

 「明智光秀生誕地」は、不明ですが、公開されている3系図

①喜多村家伝『明智家譜並びに明智系図』(系図は、『続群書類従』所収「明智系図」、鈴木真年編『鈴木叢書』「明智系図」と全く同じ)

②宮城家伝『明智一族宮城家相伝系図書』(正式名称は『清和源姓美濃国住土岐家随一之連枝明智氏一族宮城家相伝系図書』)

③山岸家伝『明智氏血脈山岸家相伝系図書』(正式名称は『清和源氏姓美濃国住土岐家之一族明智氏血脈山岸家相傅系圖書』)

には、それぞれ、

①享禄元歳戌子3月10日于濃州多羅城誕生。

②享禄元年戊子8月17日、生於石津郡多羅云云。多羅は進士家の居城也。或は生於明智城共云云。母は進士長江加賀右衛門尉信連の女也。名を美佐保と云。伝曰、光秀、実は妹聟・進士山岸勘解由左右門尉信周の次男也。

③享禄元年8月17日、生於可児郡明智城。母は山岸加賀左右門尉信連女也。伝曰、光秀、本来、是、光綱の実子に非ず、甥也。実は、光綱の妹婿・山岸勘解由左右門尉信周の子也。

とあります。

 つまり、明智光秀は、明智光綱の養子で、実父は山岸信周、実母は明智光綱の妹・お市の方で、明智光秀生誕地は、「山岸信周がいた場所」になります。多羅城主は土岐島田氏で、城主だという山岸信周なる人物については不明でしたが、山岸氏系図と進士氏系図を見比べて、

 

 ──山岸信周=山岸光信

 

であることが分かり、明智光秀生誕地は、山岸光信の居城・府内城(揖斐郡揖斐川町谷汲府内)だと推測されました。(山岸光信は、明智光秀の家臣として有名です。実父が家臣?)

 ところが、先の3系図には、明智光秀生誕地は府内城ではなく、

①多羅城(「多羅城誕生」)

②多羅城とも、明智城とも(「生於石津郡多羅云云。(中略)或は生於明智城共云云」)

③明智城(「生於可児郡明智城」)

とあります。③ではさらに詳しく、実母(明智氏)は、山岸信周と結婚し、慶事で実家(可児郡明智城)に帰っていた時に明智光秀を生んだとありますが、肝心の山岸信周の居城については書かれていなかったので探してみると、光綱の妹の項に「女子 賀茂郡蜂屋ノ庄加治田堂洞城主・山岸勘解由左エ門尉信周室にて、市ノ方と云。光秀の実母なり」とありました。②にも「女子 加茂郡蜂屋堂洞城主・進士山岸勘解由左右門尉信周先之室」と光秀の項とは異なる記述がありました。

 

 ──山岸信周=堂洞城主・岸信周で、明智光秀は堂洞城で生まれた?

 

※「賀茂郡蜂屋ノ庄加治田堂洞城主」「加茂郡蜂屋堂洞城主」は、それぞれ、「賀茂郡蜂屋庄加治田の堂洞城主」「加茂郡蜂屋の堂洞城主」でしょうね。堂洞城は加治田城のすぐ近く(加治田城は古城山(東海環状自動車道の川小牧トンネル上)、堂洞城は川浦川を挟んでクレセントバレーカントリークラブ美濃加茂内)にあり、実は加治田城の付城だとか。

 

 まぁ、家譜や系図は参考にはなるけど、盛ってることが多いから、史実だとは・・・。たとえば、①喜多村家伝『明智家譜並びに明智系図』の家譜には、「頼重十一代之正統明智光秀十兵衛尉後号惟任日向守于時享禄元歳戌子三月十日於于濃州多羅城誕生。母武田信虎女也、信玄姉也」(明智光秀(後の惟任日向守)は、土岐氏の嫡流(土岐頼重から数えて11代孫)で、享禄元年3月10日に美濃国多羅城で生まれた。母は武田信虎の娘で、武田信玄の姉である)とあるけど・・・明智光秀が武田信玄の姉の子だとは、信じがたいよ。

 

 

【参考記事】

宝賀寿男「明智光秀の出自と系譜」
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/toki/akechi1.htm
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/toki/akechi2.htm

新小児科医のつぶやき「日曜閑話69」
https://yosyan.hatenablog.com/entry/20140601