『胡蝶綺』 第4話「爺の想い」あらすじ&レビュー | 戦国未来の戦国紀行

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【登場人物】

 

平手政秀:織田信長の傅役(教育係)、次席家老(筆頭家老は林秀貞)。「ここ志賀の地を領した平手政秀は、主君織田信秀の子、信長の補佐役をつとめた。信長はかねてから行状が悪く、政秀は日ごろからこれをいさめていたが、父信秀の死後も一向に改まらなかった。天文22年(1553)正月13日、信長の将来を絶望した政秀は、この地で自害した。信長はその死を哀惜し、一寺を建て、政秀寺と号して厚く菩提を弔った。 名古屋市教育委員会」(「平手政秀宅址」現地案内板)

 

林秀貞:「織田家の宿臣。幼い信長が那古野城に居を移した際に、一番家老として付けられる。」(公式サイトより)

 

林通具:「林秀貞の弟。兄と同じく信長に仕える。信長の振る舞いに不満を感じている。」(公式サイトより)

 

清州衆:清州城の人々。

・尾張国守護代:織田達勝→織田信友(織田大和守家宗主)

・家老衆(小守護代・坂井大膳、坂井大膳の弟・坂井甚介、河尻与一)。

 

ヤラージ:「謎の南蛮船の商人、平手政秀に命を救われ恩義を感じている。度々信長に妙なものを売りつける。」(公式サイトより)

 


【あらすじ】

 

 織田信長は、鉄砲の専門家(堺の滝川一益)を居城・那古野城に呼んだ。「500丁。あと250丁欲しい」という織田信長の要望に筆頭家老・林秀貞はたじろぐが、次席家老・平手政秀が「主君の命は絶対」と引き受けた。

 平手政秀が若い頃は、織田信長の父・織田信秀の右腕として戦場を駆け回った槍の名手・平手政秀──政治手腕も優れ、朝廷との外交面でも活躍。また、茶道や和歌などに通じた文化人だった。難破した南蛮船の乗組員を助けたこともあるという。

 織田信勝派の林兄弟にとって、織田信長派の平手政秀が目障りなのであるが、「『平手政秀は守役という立場を利用して、織田家の家財を好き勝手に使っている」と流言しても一笑にふされてしまった。

 そんな時、清州城の本家・織田大和守家から、山口教継の反逆を責める(譜代の家臣に反逆者が出るのは宗主・織田信長の責任)使者が来た。林兄弟は、これ幸いと清州城の織田大和守信友に文を送った。織田信友は、織田信長と一戦交える事には及び腰であるが、家臣たち(河尻与一、坂井甚介、坂井大膳)は戦う気満々であった。

 天文21年8月15日、織田信友(清州城)は松葉城と深田城(織田達順)を襲撃し、城主を人質にした。

 実は平手政秀は重病であったが、「織田信長との約束を守る」と言い鉄砲250丁を集めるために堺へ行き、津島湊で倒れたという、平手政秀は約束を守り、かつて助けたヤラージに鉄砲を届けさせた。

 鉄砲を得た織田信長は、8月16日、庄内川の対岸から3人組に鉄砲を取っ替え引っ替えして撃たせ(『信長公記』によれば、村木砦の戦いで用いた戦法)、川を渡って「萱津の戦い」となり、松葉城と深田城を奪回し、家老・坂井甚介は討死した。このことを報告するため、織田信長は平手屋敷へ行くが、平手政秀は、すでにこの世を去っていた。(史実は病死ではなく、天文22年閏1月13日に切腹したという。)

 


【感想&レビュー】

 

 平手政秀について、これまでは、上記【登場人物】の名古屋市教育委員会による案内文にあるように、「織田信長の奇行を憂い、これは傅役の自分の責任だとし、自身の死で諌めるために諌言状を書き残して自害した」という美談(平手政秀善人説)が伝えられてきました。

 『信長公記』では、この平手政秀の自害の発端は、織田信長が平手政秀の長男(嫡男)・平手五郎右衛門(平手孫右衛門長政)が所有する駿馬を所望すると、平手長政は、「武士には馬が必要ですから(差し上げられない)」と断ったので、「主君の命に従わない家臣だ」と平手長政を織田信長が恨んだ事だとしています。

 

──平手中務丞、上総介信長公実目(じちめ)に御座なき様体をくやみ、『守り立て験(げん)なく侯へぱ、存命侯ても詮なき事』と申し侯て、腹を切り、相果て侯。(『信長公記』)

 

 平手政秀は、織田信長の(織田信秀の葬儀での)不真面目な様子を見て、守役である自分の力不足を悔やみ、「これ以上守り立てる甲斐がなく、生きていても仕方がない」として切腹したというのです。

 平手政秀は、これまで誠心誠意、織田信長に仕えてきたので、自分の引退後は嫡男・長政を取り立てもらえると思っていたのでしょうが、その嫡男・長政と織田信長が不和になり、「生きる望みが失われた」と思ったのかもしれません。また、平手政秀は「主君の命に従わなかった」として長男・長政を廃嫡し、「長男の無礼を自分の死で償います」と自害したとする説もあります。いずれも切腹の理由とするには些細なことであるし、平手政秀が死をもって訴えたのにもかかわらず、織田信長の行動が改善されていないので、「駿馬の話は、平手政秀の名を辱めないための配慮であって、実際は、『平手長政が織田信勝派』であったから」とする説もあります。

 平手政秀の死後、織田信長が菩提寺「政秀寺」を創建した。戦国武将が父親の菩提寺を建てることはあっても、家臣の菩提寺を建てることはないことを考えると、(織田信長は、父・織田信秀は一緒に住んだことがないので)織田信長が平手政秀を父親のように慕っていたと思われます。

 


【紀行】

 

志賀城(春日井郡。現在の愛知県名古屋市北区平手町2丁目の志賀公園付近):平手政秀の居城。

平手屋敷(名古屋市北区平手町2丁目):平手政秀の居館。現在の志賀公園。

政秀寺(名古屋市中区栄):平手政秀の菩提寺。織田信長が、沢彦宗恩を開山として春日井郡小木村に建てた寺。慶長17年(1612年)に現在地(名古屋市中区栄)に移転した。名古屋市内の空襲で焼けたが、墓は石であるので焼けず、平和公園(愛知県名古屋市千種区平和公園)に集められた。(戦災復興土地区画整理事業の一環として、名古屋市内279寺の墓189030基が移転された。)

http://seishuji.com/

清州城(春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)):尾張国は、清州城の織田大和守家と岩倉城の織田伊勢守家で分割統治していた。織田信長の織田弾正忠家は、織田大和守家の家臣であるが、主家・織田大和守家同等の力を得ていたので、織田大和守家としては目障りな存在であった。

http://kiyosujyo.com/

松葉城(愛知県海部郡大治町大字西條字南屋敷):城主は織田伊賀守信氏(織田信長の甥)。

深田城(愛知県海部郡大治町大字西條字南屋敷):城主は織田右衛門尉信次(織田信秀の異母弟、織田信長の叔父)。松葉城から南へ徒歩3分。

萱津古戦場跡地(愛知県あま市上萱津八剱):現在は住宅地で石碑のみ

 

織田信定┬信秀┬信長

      │     └女(小田井殿)─信氏(松葉城主)

      ├信康(犬山城主)

      ├信正(織田信雄の家臣)

      ├信光(守山城主)

      ├信実(織田信秀の家臣)

      └信次(深田城主)

 

参考『信長公記』

第12話 深田・松葉両城手かはりの事
https://note.mu/senmi/n/nd6f7a555e01d
第14話 平手中務生害の事

https://note.mu/senmi/n/n220ff280eecf

 

公式サイトhttp://wakanobu.com/story_info/story_04.html