【登場人物】
今川義元(1519-1560):有能な守護大名、戦国大名で、戦国時代に、駿河・遠江・三河3ヶ国を領して、今川家の最盛期を築き上げるも、大軍(40000)を率いた尾張国侵攻で、小軍(2000)を率いる織田信長に「桶狭間の戦い」で敗れたので、「無能の麿」「織田信長の引き立て役」と呼ばれている。本拠地の静岡市も、岡崎市、浜松市と共に「徳川三都」であると、徳川家康を中心にアピールしてきたが、今年(2019年)、生誕500年を機に「復権! 今川義元」をスローガンに、有能な人物であったとのアピールを開始した。
【あらすじ】
「今川義元が尾張侵攻を始める」と噂になった。
その噂は事実で、礼次郎(元・胡蝶)が見に行くと、三河国の手前で兵を整えており、その数は1万だという。
これに対し、織田軍は2000。敵の1/5の兵数。
さて、どうしたらよいものか?
考えられるのは次の3つ。
①援軍と共に出撃する。
②籠城して、援軍の到着を待つ。
③今川義元と和睦する。
① こちらも1万人いれば、互角の戦いとなる。斎藤道三が生きていれば、援軍を送ってくれるが、斎藤義龍では、勝っても帰路に尾張国を襲って征服しそうだ。犬山城主・織田真清は、尾張国河内郡荷之上の坊主・服部友定に支援を頼むが、「今川義元が来るのか。なら、今川氏を支援する」と敵を増やしてしまった。
② 籠城戦には、私が勝手に「円周率の法則」と呼んでいる「3倍の法則」が存在する。国衆の城の城兵は100人くらいである。この城を取り巻いて落とすには、3倍の300人が必要だという。その300人の敵を倒すには、3倍の900人の味方を呼んで、300人の敵を取り囲んでもらう必要があるという法則が「3倍の法則」である。清洲城を45000人が取り囲んだら・・・その3倍の10万人以上を動員できる戦国大名は、当時は存在しない。(後の小田原征伐では、豊臣秀吉は、20万人で小田原城を取り囲んでいるが。)
清洲城に籠城した場合は、僧侶が使者となって、和睦交渉となる。上手く交渉すれば、全滅は避けられる。「城主・織田信長が切腹すれば、尾張衆(城兵)の命は助ける。今川義元が尾張国を領し、尾張衆は、今川軍の一員として働いてもらう」ってことで落ちつくと思われる。
以前の私が書いた文章を読むと「今川義元はのろま。尾張国が混乱している時に襲えばいいのに、織田信長が統一してから襲うとは。だから負けた」と書いたが、撤回する。混乱期に侵攻したら、次から次へと現れる領主候補者に襲われ続けてきりが無い。今川義元が、尾張国を統一しなければならなくなる。統一されてから襲えば、その尾張国を統一した領主を倒せば事足りるから分かりやすくて良い。実は熟してから食べるのが美味いということだ。
③ 小軍が大軍と戦う時の常識は籠城戦であるが、籠城しても10万人以上の援軍が現れるはずがなく、結局は和睦交渉になるから、最初から和睦交渉をしてもよい。
──兵法を学んでも、今川義元は倒せない。
『兵法』とは、当時は剣術を指し、『孫氏』や『呉氏』のことではないが・・・何れにせよ、本には今川義元を倒す方法は書いてなかった。悩んでいる織田信長の前を、村の子供達が、「燕が低く飛んでいるから雨になる。早く家へ帰ろう」と言って通り過ぎた。そして、織田信長は気付いた。
──今川義元を倒す方法は経験則にある。
※燕が低空飛行すると雨
「天気予報には数値予報を使用した現在の科学的なものの他に、昔の人は観天望気といって、空の状況を観察して、天気の予測をします。 雲の形や流れ、風の吹き方や太陽や月の見え方などから経験的に予想するという方法です。また、動物や植物の行動や観察から短期間の天気や季節の予報を行うという方法、天気のことわざといったり、天気俚諺(てんきりげん)というのもあります。
この中で「ツバメが低く飛ぶと雨」というのがあります。これはツバメがとまっているエサを、とまっているときに食べる鳥ではなく、飛びながらエサを捕まえて食べるという種類の鳥(雛のときは別)ということからいわれるようになりました。ツバメのエサとなる小さい羽のある虫は、低気圧が近づいて空気中の湿度が高くなると、湿気、水分が羽について体全体が重くなり、高く飛ぶことがむずかしくなります。つまり、湿度が高いときはツバメのエサとなる虫が低いところを飛ぶために、それを追うツバメも低く飛ぶようになるのです。 」
(コカねっと! https://www.kodomonokagaku.com/hatena/?4d2ca72e65630f28342fefdf0a990a49)
信長の「経験」とは、鷹狩である。父・織田信秀との鷹狩を夢で見た織田信長は、父が教える鷹狩のコツ「油断させて、引き付けて、鷹を放つ」をヒントに作戦を思いつき、清洲城から打って出ることにした。その作戦とは「引きつけて討つ」である。
①織田信長、善照寺砦に着陣。今川義元、桶狭間山に着陣。
②今川軍の先鋒を鷲津、丸根砦で大量の鉄砲を使って迎え撃つ。
③織田信長、救援に行くと見せかけて、善照寺砦から中島砦へ移る。
④数で勝る今川は、力で押しつぶそうと本隊を前へ進める。(今川義元は、織田信長が死ぬ瞬間を見ようと、本陣を漆山へ移動する。)
⑤中島砦から出撃して、漆山の今川本隊を攻撃する。
──なるほど。それなら、勝てるかもしれん。(by 柴田勝家)
織田信長は、勝利を確信していたが、ところが、なんと、今川軍の兵数が40000であることが判明した。これでは、どんな作戦をとっても、勝負にはならない。こうなると、家臣思いの織田信長が取る道は1つしか無かった。
──和睦
織田信長は、沢彦和尚に和睦交渉の使者を頼み、姿を消した。
織田信長の消失に気付いたのは、元妻・礼次郎、「行く場所はここしかない」と察したのは、幼馴染・池田恒興であった。
──織田信長はどこへ行ったのか?
・切腹するのであれば、織田家菩提寺・萬松寺
・戦うのであれば、
・尾張国の神(尾張国一宮、尾張国総社)
・戦地の産土神・成海神社(日本武尊)
・闘神・スサノオ(津島牛頭天王社(現・津島神社)、熱田社)
であろう。
※日本武尊は、尾張水軍の3艘の船に乗り、成海神社のすぐ下の入江(黒末川)から東征に向かった。戦国時代、織田信秀は、この成海神社を北の丹下砦の横に遷座させ、跡地を改修して鳴海城とし、笠寺の山口教継を入れたが、山口教継が今川義元に寝返ると、今川義元は岡部元信を入れた。
日本武尊は、駿河国の国造に騙され、野火で攻められるが、スサノオがヤマタノオロチから取り出した剣で草を薙ぎ払い、死なずに済んだ。これ以降、この剣は「草薙剣」と呼ばれ、天皇家の「三種の神器」となって、熱田神宮に保管されている。織田信長は、駿河国の(古代の国造に当たる)元・守護(現・戦国大名)の今川義元を討つためには、日本武尊の支援が必要だと感じたに違いない。
白装束の織田信長が向かった先は、池田恒興の読み通り、熱田社(現・熱田神宮)であった。そして、読みが当たった人物がもう1人いた。怪僧・沢彦和尚である。故・織田信秀との賭けに勝つために、和睦状はまだ渡していないと言う。
──戦え、信長! (by 池田恒興)
さて、「桶狭間の戦い」である。40000は大軍であるが、細い尾根の道を歩くので、隊列は長く伸び、今川義元の周辺にはせいぜい2000。その2000を漆山におびき寄せて討つという。桶狭間は、製陶に必要な薪にする為に木々は伐られ、禿山(低山)が続く丘陵地帯である。今川義元の陣は、浮島のように見えた。
気に入らないのはラストシーンである。織田信長が1人で立っており、胡蝶のナレーションで終わり。あまりにもあっけなかった。「えっ、これで終わり?」って感じだ。今までのドラマが素晴らしかっただけに、このエンディングはいただけない。DVDでは別の映像と差し替えて欲しい。
私なら、「織田信長に今川義元の首を持たせ、そこに「信長様~」と言いながら、礼次郎、池田恒興などが1人1人集まってきて、空には亡くなった父や弟たちの顔が浮かび、織田信長が、「みんな、儂は織田家を、そして尾張国を守っただぎゃあ」と言うと、みんなが「えい、えい、おー」と勝鬨をあげて、胡蝶のナレーション。「この後、信長様は、皆様御存知のように快進撃を続けられ、天下人になられたのです。では、これにて」と言うと、画面いっぱいに「完」の文字が広がる」ってするな。
【感想&レビュー】
『信長公記』では、「桶狭間の戦い」の話が異常に長い。にもかかわらず「謎」が残されている。
──なぜ小軍が大軍に勝てたのか?
答えは、「今川義元本陣をピンポイント攻撃したから」であるが、どうやって今川義元本陣にまでたどり着けたかが分からない。「たまたま西向きの今川軍の顔を打つ暴風雨(雹とも霰とも)になって、今川軍が混乱している時、東向きの織田軍は、背中に強風を受けて、一気に本陣へ行った」という偶然の勝利なのだろうか?
豪雨になることは、「上知我麻神社(現在とは異なり、熱田神宮の南の海岸にあった)で漁師に聞いた」「織田軍の軍師・伊束法師が予言した」(当時の軍師は、儀式や占い、祈祷だけではなく、天気予報もした)というけど、天気は西から変わるもの。昼に桶狭間が豪雨ということは、桶狭間の西にある清洲を朝に出る時には空が曇っていて、風とか匂いで、豪雨の予感がしたと思う。『胡蝶綺』でも、暗雲立ち込める朝の空だった。(そういえば、昨年(2019年)5月19日に桶狭間へ行ったら、突然生暖かい強風が吹き始めたかと思ったら、豪雨! 空を見たら、桶狭間の上だけが雨雲で、周囲は青空だった。雨に濡れたが、「リアル桶狭間!」と感動した!)
「桶狭間の戦い」の真実を私は知らなかったが、今川義元の居場所に関する梁田政綱の言葉から理解できた。要するに、『信長公記』の「戌亥に向つて(段々に)人数を備へ」を誤解釈していたということである。(というか、「桶狭間の戦い」に関しては、『信長公記』の記述は、わざと史実を曲げて書いている節がある。)
https://note.mu/senmi/n/n52270d58e84f
また、梁田政綱の言葉に「今川軍は夜に大高城へ兵粮を入れ、朝には丸根・鷲津砦で戦って疲れているから勝てる」がある。(『信長公記』には、最大の殊勲者とされ、沓掛城と3000貫文を授かった梁田政綱が登場しない。だから、今川義元の居場所に関する梁田政綱の言葉は載せられていないし、「今川軍は夜に・・・」は織田信長の言葉として載せられている。)学者は「『信長公記』から、梁田政綱の「今川軍は夜に・・・」は、「徳川家康隊は夜に・・・」の間違いと分かる」と言っているが、「『信長記』には間違いが多い」と指摘する徳川家家臣・大久保彦左衛門は、「「神君大高城兵粮入れ」は2年前の話で、今回は今川軍全員で大高城に兵粮を入れた」と、梁田政綱と同じ事を言っている。
https://note.mu/senmi/n/n88aa35e31fc2