『明智軍記』第4話 | 戦国未来の戦国紀行

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『明智軍記』第4話「朝倉義景永平寺参詣事付城地事」の内容は、

1.永平寺の話

2.鉄砲時代の城の立地条件

の2つですが、例によって「長いので2部にする」そうです。

 

編集長「永平寺の話がマニアックすぎるから書き直して」

私「私がマニアックなのではなく、『明智軍記』がマニアックなのです。『明智軍記』を読んで理解するためには、この程度の知識は必要です」

編集長「読者は原文を読んでからこの解説記事を読まない。この解説記事を読んで興味を持ったら原文を読む。解説記事は原文に興味を持てるように、原文の面白い部分だけを取り上げるのもありでは?」

私「要するに、原文の全部を理解できるように書くのではなく、一部を取り上げて解説し、『興味づけ』をすればいいのですか?」

編集長「場合による。とにかく、今回の話はマニアックすぎる。あと、前置きが長過ぎる。カットで」

 

★原文&現代語訳(大河マニアックス様)

http://iiakazonae.com/1219/

★前編「永平寺の話」

https://note.com/senmi/n/n9a34d25cf4b1

★後編「鉄砲時代の城の立地条件」(武将ジャパン様)

https://bushoojapan.com/bushoo/shiro/2019/12/27/139758

★感想

https://note.com/senmi/n/na88a79e1db7d

 

以下は没になった初稿。下書き↓

https://secret.ameba.jp/sengokumirai/amemberentry-12536630281.html

から「稲荷信仰 ~道元と寒巌義尹の違い~」を削除して簡潔にしたんだけどな。

せっかくだから載せておくね。

 

 

<写真1:永平寺(永平寺唐門)>

 

 

 第4話は、「朝倉義景永平寺参詣事付城地事」(朝倉義景、永平寺参詣の事。付けたり、城地の事)です。朝倉義景の父・朝倉孝景の17回忌にあたる永禄7年(1564年)3月22日に、朝倉義景が一乗谷から吉祥山永平寺(福井県吉田郡永平寺町志比)に参詣した話で、帰り道、朝倉義景が「これからは鉄砲の時代。城を築くならどこがいい?」と明智光秀に聞いたので、明智光秀が答えています。

 

 ところで、本当に、朝倉義景は、永平寺へ行ったのでしょうか? 朝倉孝景の17回忌の様子の描写はなく、ほとんどが永平寺19代貫首・祚玖による永平寺の説明(ネタ本は『吉祥山永平寺略由来』)ですし、朝倉氏は道元系曹洞宗の信者ではなく、宏智系曹洞宗の信者だったとも。

 

※祚玖:享禄3年(1530年。一説に翌1531年)~慶長15年(1610年)。「祚久」とも。1560年に永平寺19代貫首になりました。(『明智軍記』では途中から1代ずれています。)朝倉孝景が亡くなったのは天文17年(1548年)3月22日で、17回忌は『明智軍記』にあるように、永禄7年(1564年)3月22日となり、祚玖が貫首だった時になります。

 

 「戦国三大文化」のうち、今川氏の本拠地・駿府(静岡県静岡市)に京風文化が栄えたのは、臨済宗妙心寺派の僧侶や寺院のお陰で、朝倉氏の本拠地・一乗谷に京風文化が栄えたのは、曹洞宗宏智派の僧侶や寺院のお陰だと聞いています。(「臨済将軍、曹洞士民」(臨済宗は都の武家政権中心、曹洞宗は地方武家中心)と言いますよね。)

 

※道元系曹洞宗:「永平寺系」とも。道元が宋から帰国して伝えた曹洞宗。

※宏智系曹洞宗:宏智正覚の5代法孫・東明慧日が来日して伝えた曹洞宗。

 

 

<写真2:朝倉義景墓所(一乗谷館の旧・松雲院墓地)>

 

 

 朝倉義景(戒名「松雲院殿太球宗光大居士」)の菩提寺は、永平寺ではなく、松雲院です。

 一乗谷朝倉初代孝景は、本拠地を一乗谷に移すと、一乗谷に、祖父・朝倉教景の菩提寺・大圓山心月寺(寺名は、祖父・朝倉教景の戒名「大圓院殿心月宗覚大居士」による)を建立しました。この心月寺は、曹洞宗(慈眼寺系天真派)の寺で、松雲院は、その心月寺の末寺になります。どうも朝倉氏は、本拠地を一乗谷に移してから、道元系曹洞宗の影響を受けたようですね。朝倉義景の辞世が永平寺第3世・徹通義介(日本達磨宗から曹洞宗に改宗)の遺偈と酷似しています。

 ・朝倉義景の辞世「七顛八倒 四十年中 無他無自 四大本空」

 ・徹通義介の遺偈「七顛八倒 九十一年 蘆花覆雪 午夜月圓」

それもそのはず。一乗谷の北の山を越えれば、そこは永平寺!(実際に行ってみて、あまりにも近いので驚きました  w(゜o゜)w

 

■朝倉氏と仏教、そして医学

 

・但馬国から越前国に移った越前朝倉初代広景は、菩提寺として大治山弘祥寺(福井市金屋町)を建てました。この寺は、道元系曹洞宗ではなく、宏智系曹洞宗の寺です。(越前国の宏智系曹洞宗は、朝倉氏滅亡後、衰退し、弘祥寺は臨済宗妙心寺の末寺となりました。)

 

・臨済宗中峰派の名僧(禅僧)・月舟寿桂(1460-1533)は、永正6年(1509年)、弘祥寺の住職に就任しました。月舟寿桂は、日本医学史にその名を残している僧医です。多くの漢籍医書を集め、日本初の印刷医書『医書大全』(1528年)に刊語を記したことで広く知られています。彼が来たことにより、地域の医学レベルが一気に向上しました。日本で二番目の印刷医書『勿聴子俗解八十一難経』(1536年)は、朝倉孝景が招いた医師(僧医)・谷野一栢が出版した本で、越前国で出版された最古の本になります。月舟寿桂と谷野一栢は昵懇でしたから、朝倉孝景に谷野一栢を推薦したのは、月舟寿桂かもしれませんね。

 

・朝倉義景の父・朝倉孝景は、日本達磨宗の波着寺(通称:波着観音。福井市成願寺町)への参詣の帰りに急死しました。

 

 

<写真3:「永平寺全景図」(現地案内板)>

 

 

 永平寺でお墓と言えば、朝倉氏ではなく、越前松平氏(福井藩主家)ですね。

 現地の「永平寺全景図」の右端の中央に「松平公廟所」とあります。

 

 

<写真4:誰のお墓かな?(永平寺)>

 

 

 さて、突然ですが、クイズです! 上の写真(笏谷石で出きた青い墓石)は誰のお墓でしょうか?

 

※笏谷石(しゃくだにいし):足羽山(あすわやま)山麓の笏谷付近で採掘される石。水に濡れると青く変色するので「青石」とも言われる。継体天皇が発見して、採掘させたという。なお、足羽山公園の足羽神社のご祭神は、継体天皇と大宮地之霊(坐摩(いかすり)五神)。大宮地之霊(坐摩神)は治水工事の神だと思われる。

 

ヒント1:正面には「長松院殿瑞嶺玄祥大姉」とあります。

ヒント2:徳川家康の側室(三河国(愛知県知立市)出身)です。

ヒント3:遠江国(静岡県浜松市)出身の初代福井藩主の母親です。

 

 

<写真5:問題の墓石の裏(永平寺)>

 

 

 ヒントも何も、答えを書いちゃいましたね。「長松院」です。広く知られている法名は「長勝院」(長勝院松室妙載大姉)ですね。まぁ、私が求めていた正解は「お万の方」ですけどね。長松院(1548-1620)は、永平寺への信仰が篤く、道元禅師の紫衣を包む「ふくす」(風呂敷)を寄進しています。
 墓石の裏面には、「德川秀康卿生母之墓也。明治12年5月某日、承陽菴、罹災。墓碑、亦、毀因新建」(越前松平(結城)秀康の母親の墓である。明治12年(1879年)、承陽庵(現在の承陽殿)が被災した際、墓碑もまた毀損したことに因り、建て直した)とあります。

 

 さて、本題に戻ります。

 第4話の内容は、(1)永平寺についてと、(2)鉄砲時代の城の立地条件の2本立てです。

 


1.永平寺の話

 

 

<写真6:「道元禅師」座像(永平寺)>

 

 

 禅宗(曹洞宗、日本達磨宗、臨済宗、黄檗宗、普化宗)のうち、臨済宗は、「そもさん(作麼生)」、「せっぱ(説破)」と禅問答をしているイメージが強く、曹洞宗は、「只管打座(しかんたざ)」(ひたすら座禅)のイメージが強いですね。

 永平寺は、希玄道元(承陽大師)が開いた寺で、曹洞宗の大本山の1つです。後に瑩山紹瑾が開いた諸嶽山總持寺と分裂して「両大本山」となり、永平寺を「修行の本山」、總持寺を「布教の本山」と呼んでいます。

 

 

<写真7:波多野義重座像(永平寺)>

 

 

 なぜ道元が奈良や京都ではなく、越前国吉田郡志比荘(現在の福井県吉田郡永平寺町志比)に大本山・永平寺を建てたかというと、

・興聖寺に替わる寺が必要であったこと

・深山幽谷での修行への思いがあったこと

・波多野義重の勧誘

・越前国の日本達磨宗の勧誘

が考えられます。

『明智軍記』には、さらに、

・白山比咩神(菊理媛神)を主祭神とする白山神社の総本社である加賀国一宮・白山比咩神社(旧・白山寺。石川県白山市三宮町)に近いから(白山の開山は泰澄という僧侶で、白山信仰の中心地は、登山口に建てられた越前平泉寺、加賀白山寺、美濃長滝寺である。明治の神仏分離で、越前平泉寺(東尋坊は、投身自殺した平泉寺の僧侶の名)は、明治の神仏分離令で神社に、加賀白山寺は室町時代に白山比咩神社に、美濃長滝寺は明治の神仏分離令で寺と神社に分離。)

・道元の師・天童如浄が越州(中国浙江省紹興市)出身だから(日本の越国=越州は、広いので、越前、越中、越後国に分割した。)

とありますが、後付でしょう。

 

※資料:『明智軍記』(第4話)「朝倉義景永平寺参詣事付城地事」

山居の志(こころざ)し、御座(おはしま)しける処に、越前の前の太守・波多野出雲守義重入道如是、頻(しきり)に請待申されるに付き、和尚、思惟せられけるは、我、宋地に在りし刻に、『碧巌集』を書写の時、日域越路の鎮守・白山権現の助筆を蒙りし事あり。然れば、神恩を報じ、殊に吾師・如浄禅師は震旦越州の降誕なれば、旁々以て望みある国なり。(【大意】 道元には深山幽谷での修行への思いがあった。波多野義重に勧誘されると、道元は、「越前国は、①『碧巌録』の写本を助けてくれた白山比咩神を祀る白山比咩神社に近く、②師の天童如浄が越州出身であり、このような条件から、行きたいと望んでいた国である」と言って移った。)

 

 ──忽ち白衣の神人来たりて、助筆して畢(おわ)る。これは日本の白山権現なり。(『訂補 建撕記 図会』)

 

 道元が宋から帰国する前夜、まだ『碧巌録』を写し終えていなかったが、白山比咩神が現れて、写本を助けたので、曹洞宗の寺院では、白山神社を鎮守社(守護社)としていて、永平寺では、僧侶が白山に参詣して、奥宮の前で『般若心経』を読誦します。

 後付でしょうね。曹洞宗が白山神社に接近した理由は、「白山比咩神を天白神(ヒマラヤ山脈の神)、あるいは、高句麗姫や白髭神(北朝鮮の太白山脈の神)としないで、菊理媛と捉え、寺で葬儀を扱うため」だと思われますが、この話は「菊理媛の正体」(私の持論は、縄で死体や岩を縛る巫女)や「被差別部落古代起源説」(私の持論は、部落民=穢多=秦氏←徐福伝説)とからんで長くなるので、またいずれ。

気になる方は↓を読んだらいかが?

・前田速夫『白山信仰の謎と被差別部落』(河出書房新社)

・前田速夫『白の民俗学へ』(河出書房新社)

・前田速夫『異界歴程』(河出書房新社)

ちなみに、明智光秀が門前で寺子屋をやっていたという長崎称念寺は本来は白山信仰の拠点でした。泰澄が白山に登る前、「美しい風景だ」と船を停めて休んだ場所に如意宝珠を埋め、念仏堂を建てたのが称念寺の創始であり、境内には江戸時代まで「泰澄大師舟繋ぎの松」が生えていたそうです。「門前で寺子屋をやっていた」と言われると「江戸時代の話ですか?」と言いたくなります。戦国時代、称念寺の横には長崎城がありましたので、「明智光秀は長崎城にいた称念寺の寺侍」と言う方がピンときます。豊臣秀吉が最初に仕えた松下氏は、頭陀寺の横に頭陀寺城を構える寺侍で、引馬城主・飯尾氏の家臣でした。明智光秀も、同様に長崎城にいた寺侍(朝倉陪臣)で、鉄砲の腕、あるいは、医学の知識、あるいは、連歌の才を認められて、朝倉家臣になって東大味に転居したのではないでしょうか?(明智光秀は、黒坂景久に仕え、舟寄館に通ったといいますが、舟寄館は黒坂景久の居館であり、居城は長崎城でしょう。)

 長崎城・・・「朝倉孝景条々」(1479~1481頃)には「朝倉が館の外、国のうちに城郭をかまへさせまじく候」(朝倉館以外に越前国内に城を築いてはならない)とありますから、それより前(1337年)に築いたのでしょうね。

 

※長崎城(『日本城郭大系(第11巻)京都・滋賀・福井』新人物往来社 p.346)
   長崎城は、丸岡の西約1kmに位置し、旧北陸道が約400m西を通る交通至便な場所にある。一乗谷へは18km、北庄へは10km、金津へは8kmとほぼ中間にあり、足羽(あすわ)郡・坂井郡に対する戦略上の一拠点に位置するため、しばしば長崎城をめぐる攻防戦が行われた。『太平記』に建武4年(延元2、1337)「細屋右馬助ヲ大将トシテ、其勢三千余騎越前国へ打コへ、長崎・河合・川口三箇所二城ヲ構テ漸々ニ府ヘゾ責寄ケル」とあり、南北朝時代の頃には城が存在し、南朝方の重要な拠点であったことがわかる。そしてそれは延元3年に義貞が討死したのち、家臣らが「心モ発ヲヌ出家シテ、往生院長崎道場ニ入リ」とあるところから、長崎城は往生院すなわち称念寺のことであろう。称念寺の縁起は明らかではないが、時宗の道場で、新田義貞の墓所として知られている。

 寺院を城すなわち陣所とすことは、古くからごく普通のことだが、称念寺は戦乱による焼亡その他の被害が大きいので移転しようとした。しかし、『大乗院寺社雑事記』によれば、国外に追放されていた斯波義良・甲斐八郎が越前に侵入して、文明12年(1480)7月には朝倉方の「長崎城」をはじめ、金津城・兵庫城・新庄城などを攻め落としており、反攻に転じた朝倉勢は、翌年13年9月、「長崎之道場」に出陣して大勝利を収め、斯波・甲斐方を越前から駆逐したとあるので、実現しなかったらしい。(戦国未来補足:称念寺の公式サイトには、文明5年(1473)、称念寺は朝倉氏の守備城「長崎城」となり、称念寺は金津の東山へ寺ごと避難移転したとある。)

 天正2年(1574)、朝倉氏滅亡後、一向一揆が起こり、舟寄の黒坂館を攻めた時、長崎称念寺に着陣したとあり、この頃まで称念寺は地籍図でみられるように、城館として利用できるように堀や土塁が存在していたと考えられる。

 長崎城跡は、現在の称念寺の境内を含めたその北側の「字願成寺」にあたり、その規模は堀も併せて東西約110m×南北約140mであり、南に突出した五角形をしている。堀跡は西側を除く三方に幅約10mの水田となって残り、南側には土塁跡が幅6~7mの藪となってL字状に残っている。その他、北と西に「字西門」「字北門」の字名が残り、南側には「字古屋鋪」がある。

 

※舟寄館(『日本城郭大系(第11巻)京都・滋賀・福井』新人物往来社 p.347)

 舟寄館は、長崎城の北500mの近距離にある。称念寺移転が実現しなかったため、先に隣接する舟寄に館を築いたと考えられる。もしそうであるならば、文明13年(1481)以降の築城であろう。

 館跡は、現在宅地や水田の下になっていて(補足:現在は日東シンコー㈱)にある。明治9年(1876)の地籍図によれば、「字舘」に東西約110m×南北約80mの畑地の東と南に幅約10mほどの土塁跡が残り、堀跡らしき水田がまわりを囲んでいる。館の西側に「舘ノ前」があり、東側には「舘ノ後」があるから、舘は西に向いていり、館の500m西を通る旧北陸道を扼していたのであろう。また、館の南東には、「東古町」「西古町」「法華坊」などの字名が残っており、寺院や町・市場等の存在が推測され、戦国時代の豪族屋敷村の姿が想像できる。

 城主は朝倉家臣の黒坂備中守と伝えられるが、その出自は明らかではない。文明11年、清水寺再建の勧進奉加帳にはその名がなく、義景の代になって、天文21年(1552)、一向一揆を攻撃するために宗滴を総大将として加賀に討ち入った時、堀江中務丞景忠麾下に黒坂解由左衛門尉景久の名がみえ、その戦いぶりの詳述が文献に現れる最初である。元亀元年(1570)、越前に侵入して来た信長軍を迎え撃つために、黒坂景久は朝倉勢の一支隊として竹田・風谷方面の警護に進発している。景久は翌年2年7月に薨じ、3人の息子が跡を継いだ。朝倉氏滅亡後信長に従ったが、天正2年(1574)、河北の一向一揆に攻められ、3兄弟とも討死した。

 


■道元略歴(『明智軍記』などによる)


・正治2年(1200年)1月2日 久我右大将源通忠卿の次男として生まれる。

・建保2年(1214年) 両親が亡くなると出家し、園城寺(三井寺)で天台宗、建仁寺で臨済宗を学ぶ。

・貞応2年(1223年) 南宋に渡り、曹洞宗禅師・天童如浄より印可を受ける。

・天福元年(1233年) 興聖寺を開く。

・寛元元年(1243年) 波多野義重の招きで越前吉田郡志比庄に移る。

・寛元2年(1244年) 傘松に大仏寺を開く。

             「大仏」は波多野義重の戒名「大仏寺殿如是源性大居士」による。
・寛元4年(1246年) 大仏寺を永平寺に改め、自身の号も「希玄」と改める。

・宝治2-3年(1248-1249年) 執権・北条時頼、波多野義重らの招請により、鎌倉に下向する。

・建長5年(1253年) 俗弟子・覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で遷化(病没)する。享年54。

 

※資料:『明智軍記』(第4話)

吉祥山永平寺と号す。山号は、仏法興隆に吉祥の位ありて、太白、天童に髣髴(ほうふつ)す。寺号は、天竺より震旦へ仏心宗の渡りけるは、漢の永平年中也。今又、震旦より日本へ曹洞宗を伝ふるに依りて、三国通用の理を合(かな)へ、異国の年号を取りて、永平寺と云へり。

(【大意】 吉祥山永平寺の山号「吉祥」は、仏法興隆の吉祥を感じさせる名であり、中国で道元が修行した太白山(「天童山」とも。太白(金星)が童子の姿となって現れた山)を彷彿させられる名である。吉祥山永平寺の寺号「永平」は、インドから中国へ仏教が伝わった時の中国の元号であり、その中国から日本へ「三国通用の理」(三国(インド、中国、日本)に通用する教え)である仏教(曹洞宗)を伝えるにあたって、中国の「永遠の平和」を意味する元号「永平」を寺号としたのである。)

 

 道元は、日本では天台宗を学び、中国に渡って曹洞宗を学びました。曹洞宗総本山の吉祥山永平寺の「永平」という寺号は、天台宗総本山・比叡山延暦寺の寺号「延暦」を意識したのでしょうか。(延暦7年(788年)に、最澄が、一乗止観院を建てたのが比叡山延暦寺の始まりであり、開創時の年号をとって「延暦」という寺号が使われました。ちなみに、徳川家の菩提寺の東叡山寛永寺(東京都台東区上野)は、「寛永2年(1625年)創立の『東の比叡山』」という意味です。)

 

 

<写真8:山門の額(道元の真筆は焼失)>

 

 

※資料:『訂補 建撕記 図会』

 同年七月十八日、開堂説法云云。師、今日より此の山を吉祥山(きちじょうざん)と名づけ、寺を大佛寺と号す。乃ち頌有り曰く、「諸仏如来大功徳、諸吉祥中最無上、諸仏倶来入此処、是故此地最吉祥」。この日、諷経の間、龍神の起雲降雨、草木樹林みな吉祥の瑞気をあらわすと見へたり。

 補 上の四句の偈は、『華厳経』「夜摩天宮品」の偈の例を以て、文字を易(か)へて自作して唱へらる。直の経文にはあらず。またこの時には、「傘松峯」と号して、「吉祥山」の号には、宝治二年に初めて改めらる。額字の写し、今、洛下道正庵にあり。こヽに記す。「南閻浮提(なんもんふだい)、大日本国越前国吉田郡志比荘傘松峯、従今日名吉祥山。諸仏如来大功徳、諸吉祥中最無上、諸仏倶来入此処、是故此地最吉祥。宝治二年十一月一日」と、八行に書せり。これ真筆の写しなり。「自今日」(今日より)とあれば、昨日までは傘松峯なり。こヽは記者の失考なり。(中略)是を吉祥山と名けらるヽことは、吉祥は帝釈宮の名、又、仏の成道の時、吉祥草をしき玉ふ。今地を平げ、伽藍を建立する処、吉祥なり。

(【大意】 宝治2年11月1日、山号「傘松峯」を「吉祥山」と変えた。「南閻浮提、大日本国越前国吉田郡志比荘傘松峯、従今日、名吉祥山。諸仏如来大功徳、諸吉祥中最無上、諸仏倶来入此処、是故此地最吉祥。宝治二年十一月一日」とある。この偈の元ネタは、『華厳経』第四「夜摩天宮会」第十六章「夜摩天宮菩薩説偈品」である。永平寺の「吉祥閣」は、帝釈天を祀る建物の名であり、「吉祥草」(古代インドにおいて、祭祀の際、地面に撒く草)の「吉祥」であって、釈迦も成道の時(悟りを開いた時)、菩提樹の下に吉祥草を敷いて坐したという。)

 

 

■道元系曹洞宗法系図

 

※丸数字は永平寺貫首

 

①希玄道元─②孤雲懐奘┬③徹通義介─瑩山紹瑾(總持寺)

                 ├④義演    

                 ├寒巌義尹

                 ├宝慶寂円─⑤義雲─⑥曇希・・・⑲祚玖

                 ├永興詮慧

                 ├義準

                 └道荐

 

 

 永平寺では、内紛(日本達磨宗から改宗した人物と生え抜きとの貫首(永平寺の住職)争い)を徹通義介が収めきれず、徹通義介は東香山大乗寺(石川県金沢市長坂町)に移り、義演が4世となりました。徹通義介の弟子・瑩山紹瑾は、能登国(石川県鳳至郡門前町)に總持寺(後に神奈川県横浜市へ移転)を開山し、後醍醐天皇(南朝)から「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得るが、永平寺も後円融天皇(北朝)から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受けたので、曹洞宗の大本山が2寺(両大本山)になってしまいました。

 瑩山紹瑾は弟子に恵まれ、「四哲」(明峰素哲、無涯智洪、峨山韶碩、壺庵至簡)を輩出して発展しました。一方、永平寺では、保守派の義演と進歩派の宝慶寂円(道元の師・天童如浄の甥)が対立し、外護者・波多野氏の支援も弱まって、寺勢は急激に衰え、廃寺同然になりましたが、5世・義雲が再興すると、その後は宝慶寂円の法孫が歴代貫首となりました。

 

 

■「永平寺十一景」

 

 

<写真9:「玲瓏の滝」(永平寺)>

 

 

「永平寺八景」に3景を加えたのが「永平寺十一景」になります。後に「永平寺十境十景」に変更されました。なお、「八景」については、『明智軍記』第44話「信長公御居城被定江州安土事付天守事」で解説します。

 

①玲瓏巖(れいろうがん):天童山景徳寺にも似た岩があり、横に同寺から運んだ木の苗を植えた。

②涌泉石(ゆうせんせき):水が、渓流石に当たって、水が湧いてるように見える。

③偃月橋(えんげつきょう):半月を偃せたような橋。満月の半分。

④承陽春色(じょうようしゅんしょく):承陽庵(現・承陽閣)の周囲に春になると百花が競って咲き誇る。

⑤西山積雪(せいざんせきせつ):西の山には夏にも雪が残っているという。

⑥竹径秋雨(ちくけいしゅうう):孤雲閣の西の竹藪の小道に降る秋の雨。

⑦仮山松風(かさんしょうふう):承陽庵の左の仮山の老松を通る風(の音)。

⑧白石禅居(はくせきぜんきょ):承陽庵の前の道元の座禅石。

⑨深林帰鳥(しんりんきちょう):深い林に帰る鳥。

⑩祖壇池月(そだんちげつ):承陽庵の池に映る月。

⑪樵屋茶烟(しょうおくさえん):境内から見える山民(きこり)の家の茶煙(さえん)。

 

■「永平寺十境十景」

 

《十境》

①傘松峰(さんしょうほう):大仏寺山。傘の形の老松があった。

②剣降嶺(けんこうれい):剣ヶ岳。昔、宝剣が降ったという。

③玲瓏巖(れいろうがん):天童山景徳寺にも似た岩があるとして、道元が借用して命名。

④虎咆泉(こほうせん):天童山景徳寺の滝の名(虎咆泉)を道元が借用して命名。

⑤涌泉石(ゆうせんせき)

⑥偃月橋(えんげつきょう)

⑦白山水(はくさんすい):湯茶用の湧き水。

⑧羅漢松(らかんしょう)

⑨霊山谷(りょうぜんこく):霊山院がある谷。

⑩菩提園(ぼだいえん):弧雲禅師の墓所。

《十景》

①承陽春色(じょうようしゅんしょく)

②弧雲名月(こうんめいげつ):弧雲閣から見る月。

③白石禅居(はくせきぜんきょ)

④青山積雪(せいざんせきせつ)

⑤仮山松風(かさんしょうふう)

⑥祖壇池月(そだんちげつ)

⑦竹径秋雨(ちくけいしゅうう)

⑧樵屋茶烟(しょうおくさえん)

⑨神林帰鳥(しんりんきちょう):白山権現を祀る林に帰る鳥。

⑩西嶺斜照(せいれいしゃしょう):夕日に照らされた西嶺(吉野ヶ岳?)