「仏法は勝負だ!」間違った解釈してませんか? | 九頭竜のブログ

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「仏法は勝負だ!」

と創価学会の執行部からはそう発破を掛けますが、



意味をはき違えてませんか?


勝ちか負けか、勝った方の信心は正しく、負けた方は誤りで信心も弱い。
と池田創価学会はこの樣に教えてきたし今も変わらない。
   裁判所は世間法を律する所であって、仏法の正邪を決する所ではない。だから裁判に勝ったからと言って、自分達が正しいとは限らない。

創価学会がこれまで犯したで謗法の罪障が消えた訳ではない。

諄いようだが、敢えて言う創価学会の会員は仏法上の大重罪を犯し罪障を積んでいるんですよ!


では一歩引いて、裁判で勝てば世間法の上で、正しいと言えるかと言えば、これまた怪しいのであります。

裁判の判決もえん罪と言って、誤る事が実に多いのである。誤りを少しでも正しく裁こうと言う為に、高裁、最高裁と言う上級審がある。だが、それでも誤る。冤罪の再審請求が後を絶たない事をもってもわかるだろう。
冤罪者の存在は、犯罪者の野放しと表裏一体である。

だから、例え最高裁で勝っても、創価学会の正しさの証明にはならないのである。



世間法を裁くのさえ誤る裁判の勝利をもって、玄妙不可思議な仏法の勝利と真底思い込んでいるとしたら、池田創価学会は余程狂っている。だが実は決してそうは思っていない。愚かな会員を欺く便法にしているだけである。なぜならば、今まで学会が起こし、あるいは訴えられた裁判で、学会が勝ったのは、まぐれみたいで100%中17%しかない。


敗訴した事は一切性狂(聖教)新聞に載せないから、学会員は何も知らない。性狂(聖教)は都合のいい事しか載せない。だから「仏法は勝負」と言えば、学会員は疑わないのである。

 世間においての勝敗や貧富、あるいは毀誉褒貶がそのまま仏法上の勝ち負けとするならば、大聖人、日興・日目両上人はあきらかに敗者である。

 大聖人様の御生涯は周知のごとく悪口罵詈、刀杖瓦石、数々見擯出の法難の連続であられた。
 所を追われ、身に傷を被ぶり、両度も罪人流人の身となり、惨憺たるものであった。

常随給仕の日興上人もまた同じである。何一つ世間の栄光に輝いていない。
日目上人とて変わらない。世間の冷酷な目で見れば、美濃の垂井での身軽法重の御最後も、ただの行倒れにすぎない。しかし、宗開三祖の一期の化導は、敗者のそれであろうか。

「仏法は勝負」と言う言葉を学会は全くはき違えている。

「勝負」と言うと、現在では生存競争、ゲームの勝ち負け、賭博と言う様な浅ましい語感がともなう。

大聖人様は決してその様な意味に使われてはいない。勝負と言う語は、
経文の中では
「論浄における決着」(仏教語辞典)
の意味で使われている。

つまり法の優劣に決着をつける事を最優先させる事を
大聖人様は
『四条金吾殿御返事 』(平成新編1175頁)に
「仏法と申すは勝負をさきとし」
と仰せられたのである。
 他に同じく(平成新編1179頁)
 「仏法と申すは道理なり」
とも仰せられている。
 この御文とあわせ考えれば、大聖人様の御意は明らかである。
 世間は目に見える結果を判断の基準にする。
 だから裁判でも、実際の罪の有無よりも、判決が有罪か無罪かを問題にする。
しかし仏法は、目に見えない道理を根本とする。


裁判の上で負けようが、有罪だろうが、道理が正しく、罪を犯していないならば、仏法の上では勝ちである。

私共は総本山に在す本門戒壇の大御本尊並びに、大聖人様以来の血脈法水を御所持される、御当代御法主上人を心の底から尊崇した時に既に勝っているのである。
 
裁判の結果などは、仏法の上では問題外の事にすぎない。