私、少しの間老人介護に身を置いたことがある。



でも、最初は正直介護に興味なんてなかった。


ただ待遇が良かったから足を踏み入れた「老人介護」っていう世界。

私が老人ホームのバイト求人を見つけたのはまだ大学生の頃。


アルバイトとしてはそれなりに時給も良かったし、適当に年寄りの面倒見ればいいんだっていう軽い気持ちだった。
今考えたらとんでもないけれど、正直そうだったんだから仕方ない。



当然最初は右も左もわからなかったけれど、山積みの仕事をこなすうちに自然に介護技術を叩き込まれていった。


だけど今思えば、時間に追われるだけで、介護に一番大切で必要なものは全く育っていなかった。
流れ作業のようにただ「仕事」をこなしていただけだった。




中田さんが入所してきたのは私がバイト始めて2ヶ月ほどした頃。


脳梗塞の後遺症で右半身麻痺と言語障害が残った中田さん。


ほぼ車椅子での移動だったけれど、まだ60代ということもあって、自分で車椅子を駆る元気な方だった。



その元気さはわがままっぷりにも存分に発揮されて、自分の伝えたい言葉をなかなか話せないながらも沢山の癇癪を起こしてくれた。
まだ慣れないうちは何度も殴られた。

「このクソおやじ」って真剣に頭にくることもしょっちゅう。



殴ったあとはさすがにバツが悪いのか、中田さんはキイクルキイクル車椅子でやってきて、モゾモゾ黒砂糖の袋と一枚の家族写真を取り出す。

黒砂糖を私になめさせ、写真を指差しながら


「長男は弁護士、次男は役所勤め、長女は結婚して子供もたくさん」

たどたどしい言葉で嬉しそうに話す。

これが中田さんなりの仲直りの方法になっていた。
私はどれだけ頭に来ていても「ふ~ん、うんうん」といつも相槌を打った。


なんどケンカしても、なんども仲直りした。



若い頃に派手に遊んだらしくて、中田さんは家族にとっくに見捨てられていた。
別に同情したわけではないけれど、私は中田さんの事を人としてだんだん好きになっていった。



中田さんは入浴介助と散髪だけは他の介助員にはさせずに私にさせた。

入浴の日はいつも玄関先で私が出勤してくるのを車椅子でソワソワ待っている。


散髪。


バリカンでクリクリになった頭を指差して


「つるっぱげ」


とニコニコ笑う顔が忘れられない。



そんな中田さんに癌が見つかった。
本人はずっと体調不良を隠し続けていた。
今考えるときっと勘付いていたんだと思う。重大な病気だって事に。
だからこそ病院に行くのが怖かったのね。きっと。
私は気づかなかった自分を責めた。発見がもっと早ければ。

自分の未熟さを悔やんだ。


入院した中田さんはどんどん衰弱していった。

ぽっちゃりしていた身体が細くなっていくのを見るのは辛すぎた。


いつものようにお見舞いに行ったある日。


「中田さん、りんごジュース持ってきたよ」


私が声を掛けると、中田さんは弱々しく目を開けて、隣にいたナースにこう言った。


「これ・・・ワシ・・の・・子供」


自分はプロなんだから、決して涙を見せてはいけないって。

わかっていたけれど、私は中田さんの手を握って泣いた。

すぐそこまで迫ってきている死が怖かった。

まだ若すぎる私には「死」は「生」の正反対にあるとても恐ろしいものだった。


その後すぐに中田さんは亡くなった。



入院中も確保しておいた中田さんのホームの部屋。
家族が来られないからと、荷物整理のために私は中田さんの部屋に入った。


中田さんが使っていた車椅子がぽつんと所在なげに置いてある。


引き出しを開けると食べかけの黒砂糖の袋が出てきた。
最後に「仲直りの黒砂糖」をもらったのはいつだったっけ。

私は思い出しながら片付けをはじめた。



もう癇癪で困らされることもないけど、

黒砂糖もなめさせてはもらえないんだ。
人が死ぬってそういうことなんだ。

この仕事はそういう事をわかっていなきゃいけないんだ。


まだ中田さんの匂いが残る部屋で、涙がぽたぽたこぼれた。



「死」は別世界の遠いものじゃない。

毎日生きているこの瞬間にいつも隣り合わせにある、「生」と結ばれた先の延長にあるもの。


まだ子供だった私に本当の「死」を教えてくれたのは中田さんだった。



「介護」は綺麗事だけでは語れない。
毎日が戦争のような世界。理不尽な事だって多い。

それでも、今の私を、老人ホームで働いていた時にもらったものたちが助けてくれる。
あげていたつもりがもらうばかりだった。


私は正直介護に興味なんてなかった。
でも、また。いつか。
介護に携わる日が来たら、きっと言える。


「介護に興味ありまくりです!!」って。