相手方がいる以上、あるいは、自分が判断権者でない以上、「絶対」はない。
何事も、幅広く予測しておくことが大切だ。

希望的観測や経験則に胡座を書いていると、足下を掬われてしまう。

最悪の展開になったとしても、あらかじめその可能性を予測しておくことによって、素早い対応が取れるし、善処できる。

今日は、ほぼ通常の結果だったので問題はなかったけれど、
少しだけ、予想外の点があった。

幸い、以前にも似たようなことがあったので、落ち着いて対処できた。

やっぱり経験は大事。…ってあれ??

いやいや、予測しておくことはもっと大事。
最近、人から、穏やかだね、と言われることが多いので、ビックリする。
自分では結構激しい性格だと思っていたからだ。

特に、この仕事を始めてからは、基本がケンカ中の人か犯罪者の弁護なので、いろんな場面で緊張の連続で、より一層気が強くなったと思う。

でも、よく考えてみると、穏やかな性格と気の強い性格は、両立しないこともない。
普段穏やかでも言うべきことは言う、と考えると、ちょっとカッコいいかも(自画自賛)。


もし、穏やかになったとすると、それこそ、ヨガや、ボディワークや、様々な心理学や生き方や感情解放のメソッドの本やサイトや、友人達との対話などを通じて、

・自分の中心軸がブレないように心掛ける
・身体と心は繋がっていることを意識する
・今、ここにある自分を見つめる
・ポジティブな感情もネガティブな感情も、自分の一部と認めて、手放す
・「べき」ではなく、「したい」で行動する
・直感に従う
・自然に親しむ
・自分を大切にする

こうしたことを心掛けるようになったからだと思う。

自分の内面と向かい合うと、それに呼応するように課題となるような出来事(主に仕事で)に遭遇した。
それは、乗り越えた今考えればギフトだったのだけれど、当時は試練としかいいようのない、苦しいものだった。
この試練は今もまだ続いていて、この仕事を続ける限り続くのだろうけれど、5年経って、ようやく多少の余裕が出てきた。

それで、穏やかになったのかもしれない。
突然、気がついた。

10年以上も、何を同じところでぐるぐると足踏みを続けてきたのだろう。


祝福する準備は、とうの昔に整っていた。


良かった。おめでとう。
本当に、おめでとう。

そして、心から、ありがとう。


師走が視野に入ってきたためか、にわかに忙しくなってきた。
いろんな人から、これでもか!とばかりに連絡が来る。


これだけ数が多くなると、返事を忘れないようにするためには、即レスするしかない。

パソコンのメールなら、未読に戻して、返信していないことを明らかにして、後で返事をすることもできるけれど、携帯のメールだのその他ツールだのに、いちいちそこまでしない。

それに、保留が多くなればなるほど、後で返信の量が増えて苦しむことになる。

ゆえに、できるだけ、見たら即レスをしている。

そして、即レスの対象は、仕事もプライベートも関係ない。来たものを、順番に、打ち返す。

理由は、上記のとおり返信を忘れてしまうから。
それに、仕事なのかプライベートなのか曖昧な連絡もよくあるからだ。クライアントからのイベントのお誘いとか。
いちいち区別をしていられない。

こうして、どんどん、スケジュールが埋まっていく。
忘年会の連絡も3つあった。


でも、これからは、この即レススタイルを変えようかと思う。
自分を見失わないためにも。
即レスを続けると、人によって差はあるものの、基本的にどんどん連絡が来るスピードが上がっていく。
公使問わずいろんな人と速いスピードで多数のやり取りをしていると、次はこれをしなきゃいけない、次はあれ、と、心が前のめりになって、焦ってしまう。
結果的に、一人一人への応対も雑になる。

気が焦ると、ろくなことがない。
今自分がすべきことやできることを見失い、仕事でミスはするし、イライラして対人関係を悪くしかねないし。


でも、仕事とプライベートを厳密には分けられないだろうな。

どうやってやろう。考えよう。
家で準備書面を起案しています。


先ほど、廊下から、酔っ払い達の盛り上がった声が聞こえてきました。


…完全に八つ当たりだけど、イラッとしました。

いいなあ~・゜・(つД`)・゜・
当たり前だけど、結婚する(又は結婚同様の関係になる)恋愛以外は、全て、終わりがある。

お別れすると、仕事などで必要のない限り、連絡しないことか多いだろう。

一方、友人同士だったら、何となく疎遠になることはあるけど、「別れる」と宣言することはほとんどない。

不思議だ。

わざわざ宣言して関係を終わらせるなんて。
そんなドラスティックなやり方までしないと、断ち切れないような、深い繋がりを、あえて断ち切るだなんて。

そこまでしてでも別れを切り出す方は、「この人だけは違う。この人だけは、一生を共にする相手ではない」と、心の底から思っている、ということだろう。

よく考えると凄まじいな。
何年も、家族みたいに付き合っていたとしても、「この人とは無理」ってことだから。

別れを告げる方は、凄まじくても、真剣に宣言をする。
その姿は、言われた方には死刑執行に思えても、客観的には、誠実だ。
「君(あなた)を、パートナーにはできない」と、かつては人生の重要な部分を共有した相手に、一番言いづらいことを告げる、嫌われる勇気があるということだから。


世間には、そこまでパートナーを探すことに真剣・誠実じゃない人もいる。
外的条件だけしか見なかったり、相手を自分の頭の中の理想を叶える道具としか見ていなかったり、トロフィーワイフを欲しがっていたり。
そういう人は、大抵利己的で弱いから、要らなくなった服を捨てるように相手を変える。二股したり、メールで別れたり、ひどい人になると何ヵ月も音信不通にして自然消滅をする人もいるという。

別れ方には、人間性が出ると思う。


不誠実な別れ方をされた人には、月並みだけど、こう言う。

「そんな不誠実な男(女)と縁が切れて良かったよ。
必ず、そう思う時が来る!」

昨日今日と、それぞれ別の案件で、「依存」が背景事情にある問題が、三連発。
これは、ブログのテーマにしろ、とのお達しに違いない。

人間、誰しも依存することはある。
私だって、アルコールに少し依存しているともいえるし、
以前はタバコを吸っていた。
人に依存してしまうこともある。

でも、あえて言う(というか、一部の当事者には言った)。

「(身体や心に悪い、又は、法律や人道に反していると)分かっちゃいるけど止められない」

これは、自分で自分を痛め付けている、虐めていることと同じなんだと。


自分で自分を大切にしていれば、そんなことはしない。
そんな自分にかわいそうなことはしない。
かわいそうだから、止めてあげたら?と。


まあ、そこまで言うのが職務の範囲内なのかどうかよく分からないけど。

でも、お医者さんだって、「本気で治りたいんだったら生活改めろ!」って怒る人はいるし、いいかな。
(幸い まだ怒られたことはないけど、友人のドクターはガンガン怒るらしい)

あー、疲れた。
人に本気で話すのって、体力使いますわ。

今月に入ってから、バタバタバタとしているところだが、とどめをさすように、急展開が生じた。

人生って、ホントに、何がどう転ぶか分からない。
そして、本当に、どんな経験も無駄じゃない。

大きな流れが来ている。
流れに乗るか?乗らないか?

とりあえず、まだ時間は少しある。
近ごろ、つらつらと考えること。

人間社会においては、無意識に人々の役柄が決まっていき、それを演じる…とまではいかなくても、役柄に収まっていく。
役柄は、相手との総合的な関係性で決まっていき、一人の人がいろんな役柄をこなしている。

分かりやすい例で言えば、聞き役とか、世話役とか、ツッコミ役・ボケ役、女王役、お嬢役、妹役・姉役・母親役、教師役・生徒役。

時には、ピエロ役、プライド回復役、振り回され役なんていう一見嫌な役もある。
私の場合、だいたい、そういう役回りになる関係の相手とは疎遠になるが、たまに、続くこともある。
この人はそういう役である私を必要としているんだな、と思えるくらい、相手の寂しさとか不安とかを理解でき、他方で、相手が他に良いところを持ち合わせていて、私を尊重してくれるときは、続く。

最近気がついた新たな役は、次のとおり。

・懐かしくて会おうと思えば会えるけど容易に近付かない役(別名、「いいね!役」)

→10年くらい縁が切れていたがFacebookで復活した学生時代の友人とか彼氏とか、会社の元同僚や先輩とか。
  人によっては、飲み会が実現したり、仕事でお世話になったり(自分のクライアントをその人に繋いだり)して、違う役に変わっていく。

・ピンチの時のお助け役(別名、「アラジンの魔神役」)

→弁護士だから、これは当然かな。
みんな、生きているといろいろあります。

・定期便役

→1年に一度とか、定期的に会う役。これは役というより関係か?
続けていると、かなり大切な関係になっていく。


以前からたまに述べていることだけれど、
昔は、こうした別々の役をこなす自分が、人間関係に冷めていて技巧的なように思えて、「本当の自分」と解離しているように思えて、本当に嫌いだった。

でも、今は、人との関係性を分析して立ち居振舞いを変えることは人を思いやってのこと、時には自分を守ることだと知っているし、あれもこれも本当の自分(というか本当の自分なんてない)と分かっているので、いろんな役柄を発見することが楽しみになってきた。

そして、時の経過やいろいろなことで、役柄も変わっていくことも、楽しい。

人間は、やっぱりおもしろい。
もう10年以上経つというのに、思い出す時がある。

・私のことがもう好きじゃなくなったの

・女性としての魅力が足りないと思っているの

・私との約束は大したことじゃないと思っているの

・約束を守る価値もないと思っているの

・私はキャリアも捨ててしまって、あなたのせいで社会的に無価値になったよ


…うっひゃー、重たいな~

これ全部、離婚する前後に思っていたこと。
完全に、悲劇のヒロインになってますな。

こうやって、相手を面と向かって責めて、会わなくなってからも心の中で責め続けて、
ついでに元夫とは何の関係もない人も心の中で責め続けてみたり(このことには最近気付いた。完全に八つ当たり。)。

確かに、相手にも悪いところがあった。
私にも、悪いところがあった。
それは人間だから、仕方がない。

しかし、真の問題は、喧嘩両成敗とか過失割合5対5とかそんなことではなくて、私が、自分の価値を、人(当時は元夫)の判断に委ねてしまっていたこと。

自分の価値は、自分で決めるもの。

相手が私のことを価値がないと思ったとしても、私は何も損なわれない。
粛々と遠ざかるだけだ。

自分で自分を見失うこと、換言すれば自分で自分を無価値だと貶めてしまうことほど怖いことはない。

自分を愛せない人が、人を愛せるはずがないし、そもそも、自分で自分を愛せなくて代わりの誰かに愛して欲しいと言って、運良く愛されたとしても、自己承認ができていないと根底では満たされない。

そのことにもっと早く気付いていたら、もう少し楽な人生だったかもしれないと思う。

けれど、これまで生き延びてきた経験は、間違いなく自分の糧になっているし、これからにも繋がっていくんだろうな、とも思う。