「発信する!尚禮舘空手を沖縄から」


師 渡口政吉先生の沖縄本来の文化としての「尚禮舘空手」を約束の地「沖縄」に還す為に道場を設立し発信する活動しています。


🟥事務局代表伊覇の沖縄空手インスタグラム🟥




皆さんこんにちは

尚禮舘事務局代表 伊覇@ryoumikuniです。


今回は尚禮舘ストーリーということで戦後の沖縄空手界の事をお話ししていきます。


尚禮舘ストーリー






1953年。戦後8年が経つと人々の目に輝きが戻った

しかし、剛柔流には悲しい出来事が起こった。

開祖宮城長順先生がお亡くなりになったからだ。

家族をはじめ、空手界の先生方、高弟、門下生、多くの人が悲しみに明け暮れたであろう。

そんな悲しみも束の間、翌年の1954年に渡口先生はコザへと拠点を移す。
那覇で生まれ育ち、戦後は糸満で仕事を持ち暮らしていた先生がなぜ恩師の死後に自分の居場所を変えたのかは現在でも分かっていない。

だが、今考えるとこの選択は沖縄剛柔流が世界に広がる一つの大きな分岐点になったのには間違いない。

木造の小屋の様な道場に「尚禮舘」の看板を堂々と掲げ恩師から教わった剛柔流空手を普及しはじめた。
この道場開設は戦後どの会派よりも早かったと言われている。

当時のコザ市といえば、アメリカ軍が占領し基地もあり、兵隊の為の歓楽街が軒を連ね、戦後の爪痕が残る那覇よりも段違いに華やかだったらしい。

そんな狂気と華が入り乱れるコザで自分の信じる空手を指導する。戦地の情景が頭から消えぬ渡口先生の「若気」がこの挑戦を後押ししたのであろう。

この尚禮舘の道場は最初は沖縄の人達を指導していたが後にアメリカ軍からの依頼で海兵隊が稽古に参加する様になった。

3人から10人。50人から100人。最後には小さな道場に入りきらず外にも及んで沖縄人アメリカ人関係なく気合いの中稽古に汗を流していた。

後にこの時のアメリカ人門下生達が自国へ帰りアメリカ国内で剛柔流空手が広がるキッカケとなった。

続く

尚禮舘事務局 伊覇

〜恩師の死後に渡口政吉先生が詠んだ詩〜

虎は死して皮を残し

人は死して名を残す

師は死して死を教えたり

禅と深い繋がりがある剛柔流の死生感を詠ったものです。

#尚禮舘ストーリー