「発信する!尚禮舘空手を沖縄から」


師 渡口政吉先生の沖縄本来の文化としての「尚禮舘空手」を約束の地「沖縄」に還す為に道場を設立し発信する活動しています。


🟥事務局代表伊覇の沖縄空手インスタグラム🟥






皆さんこんにちは

尚禮舘事務局代表 伊覇@ryoumikuniです。


今日は渡口先生の東京でのエピソードを書いていきます。





東京本部道場の法政大学の空手部創立





1963年

「えい!」

学生達の声は境内に響いた。

上京して3年を経て初めて開設した道場は神社の中だった。
多くの学生が沖縄からきた開祖宮城長順先生の高弟の空手を学ぼうと懸命だ。

上京当初は東京代々木修練会の雇われ師範だった渡口先生はやはり自分の思う空手を普及したいとその高待遇を捨て自分の足で都会を歩いて見つけた道場が中野区にある氷川神社。

夏の日差しがジリジリと照りつける中でも霜柱をジャリと踏みしめる冬でも稽古は続いた。
当時を知る門弟に聞いてもあの頃は大変だったと話す。

そんな中ある転機がやってきた。1963年5月法政大学の沖縄研究学の外間守善教授の計らいで同大学の剛柔会の監督に任命される事となった。

(現代における空手の意義は「社会に必要な人材を育成する事である」という渡口先生の言葉の様にその頃の学生が元首相や沖縄前副知事などを務めた。その他の人材も各業界で活躍している)

多くの血気盛んな学生が渡口先生の元に集い尚禮舘の心と技を学び中には大学卒業後に正式な指導員となりアメリカやブラジルなど海外に旅立つ者もいた。

しかし、それでも渡口先生の都会での生活は苦しかった。それを知る事がきるこんなエピソードがある。

ある神社での審査日に片道分の電車賃を握りしめ向かったのはいいが、突然の雨で審査会は中止。帰りの電車賃がなく駅で立ち往生。歩いて帰るにも行かず駅の改札前で佇んでいたところ弟子の一人が偶然通りかかりお金を借りようやく帰ることができた。

宮城長順先生曰く空手の極意は「ナンジ(難儀)する事にある」

この東京生活のナンジこそが渡口先生の空手をさらに次段階に進める大きな経験になったのであろう。

1969年4月。多くの門下生や学生の集まる中東京本部道場が開設した。

渡口先生はこの時51歳。「年齢的にもこの本部道場が完成しなければ沖縄に帰っていた」と話していた。

南の島から渡ってきた小さな種は、9年間に渡る受難の末この東京の地で大きな産声を上げた。

続く