上原真人氏の「額田寺出土瓦の再検討」という論文を読むと、額安寺近辺から法隆寺式軒瓦が多く出土しているので七世紀末から八世紀初めにはかなり寺観が整えられたと考えられるようです。 

 しかし「額田寺伽藍並条里図」に描かれたように、額田寺(額安寺)の中心伽藍が条里区画に従っているならば、その伽藍計画自体が八世紀に下降し、七世紀末の法隆寺式軒瓦を主体的に葺いた堂が解体されて新たな計画のもとに額田寺の伽藍が成立したと考えざるを得ないと述べておられます。 

 八世紀半ば、そのような再整備で新たに堂舎が建立された時期に、十大弟子像と八部衆像が造られたと想像しています。

 また、その像容については「興福寺曼荼羅図」に描かれた中金堂西の間と西金堂の阿修羅像が炎髪であるのに対して、現存の阿修羅像は結髪で法隆寺五重塔の阿修羅像に近い表現である事から、瓦だけでなく造仏に関しても法隆寺の伽藍再興に携わった集団あるいは、その後継者の関与が考えられるように思います。

 「大和額安寺別當職相傳次第」という文書によると、永承五年(1050)、宗岡仲子という人物が額安寺の別当に就任し、それ以降、鎌倉時代の嘉元二年(1304)まで宗岡氏の一族によって別当職が継承されています。

 宗岡氏の前には額田部氏の別の一族が別当職を継承していたと思われますが、何かの理由で宗岡氏に交代したと考えられます。 
 恐らく宗岡氏の前に別当職を継承していた一族に関する系譜が存在していたと思われますが、それは宗岡氏によって破棄され、寺の由緒を高めるために道慈を開基とする伝承が作られたと考えています。 

 この宗岡氏の時代に額安寺が興福寺の末寺として扱われていた事が長寛二年(1164)の文書などで分かります。 

 前に触れましたが、平安時代のある時期、額安寺の八部衆像が興福寺の西金堂に安置された事が有りました。 

 その事は大江親通が嘉承元年(1106)に南都を巡礼した時の記録「七大寺日記」に記されているので「興福寺曼荼羅図」の原本の成立を寛治七年(1093)と考えると、その間に移座された事になります。 

 また、大江親通の保延六年(1140)の南都再巡礼の時の記録「七大寺巡礼私記」の記載から、この像を安置してから毎年、寺内で闘乱が有ったので長承年間(1132~1134)に額安寺に返還した事が分かり、最短で考えても26年、最長では41年間、西金堂に安置されていた事になります。 

 額安寺では宗岡氏の尋智が寛治四年(1090)に父親から別当を引き継ぎ、保延四年(1138)に息子に譲っているので、その在任期間の出来事になります。 

 西金堂に移座された理由は不明ですが「七大寺日記」に高名な像であると明示されているので、その像容の素晴らしさが宣伝されていて、京から南都を訪ねた皇族や貴族が、西金堂に伝来する当初からの像と比較して拝する事が出来るように寄託されたのではないかと想像しています。 

 ただ、それほど長期の寄託になるとは想定していなかったのが、なかなか返還してもらえないので、興福寺側が納得する理由を作り上げて返還してもらったというのが真相ではないかと思っています。 

 本来、別々の寺に安置されていた八部衆像が縁あって西金堂で出会い、共に、そこで過ごし額安寺の像は本来の場所に戻る事になったわけですが、それが、二組の八部衆像にとっては永遠の別れになり、約100年後には、額安寺の八部衆像が西金堂当初の像の身代わりとなって西金堂に安置される運命になるとは、この時の移座に関与した誰もが想像しなかった事だと思います。