とみ的「東方神起」論(16)——Geeとじじぃの「違い」 | 昭和生まれ平成育ち「とみ」

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へこたれない生き方を模索して、
飛び込んだ研究街道での記録

最近手書きの動物をたった5匹描いただけで、局所的に「炸裂」させてしまっているとみです。
一生懸命動物の特徴を掴もうとしているのですが、すればするほど、かけ離れていくようです。

今回の論(16)では、J-POPとK-POPアイドルの違いは一体どこにあるのかという視点から東方神起現象を考えていきたいと思います。その理由としては以下の3つが上げられます。

1つ目に、J-POPアイドルとK-POPアイドルが語られる時にあげられるのが、「歌唱力」「ダンス」という芸能についてです。ダイナミックなダンスと、鍛え上げられた歌唱力で、K-POPのアイドルはたびたび評価されますが、その一方で「だけどJ-POPアイドルは」という切り返しによって、不完全さがあるがゆえにそれが評価を低くするタームとして働かせられます。例えば、SMAPの仲居君の歌唱力が上げられます。それは、両者のアイドル生成システムがそもそもとして異なるので、システムが違うから能力に差があるのだと言ってしまえば簡単です。しかし、そうなると「なぜJ-POPアイドルは低評価を受けやすいにも関わらず、K-POPアイドルの対抗軸として上げられることが可能なのか」ということが問われません。もしその能力だけで比較するのであれば、比較例としては好例とは言えないからです。

2つ目に、容姿に対しての評価の違いです。2人東方神起を上げれば、180cmを越える長身とその長い手足から繰り出されるダンスは、2人の肉体美が強調され、まさに「2人で東方神起は完成体なのである」という言説を引き出します。ただし、ここでは2人東方神起では完成体ではないと思うファンがいることも忘れてはなりません。あくまでそのような言説があるのだという点に注目しています。また、少女時代などは細く長い足を持つそのスタイルを生かしたダンスを取り入れることによって、彼女達の曲の世界観を完成させています。その一方で、例えば記憶に新しいのが紅白で司会を務めた嵐と2人東方神起の身長差を比較して、その身体的優劣をもってJ-POPアイドルとK-POPアイドルの評価が行われていたり、さらに甘いマスクと鍛え上げられた肉体とのギャップにJ-POPアイドルにはない「男性らしさ」を見いだしているのだとする言説もあります。それは同様に、少女時代とAKBのメンバーとを比較して、大人らしさ溢れるK-POPアイドルと幼児体型J-POPアイドルという評価が行われているところから見ることができます。

3つ目に、異性に対する振る舞いの違いです。特に、K-POPアイドルが日本の番組に出演すると、韓国における「記念日」の重要さが強調され、いかに異性を喜ばせるか/喜ばせてもらえるかを語ることが多々あります。ここから見いだせるのは、韓国人男性と韓国人女性の間では記念日がいかに重要視されているのかということだけではなく、「それに比べて日本は」と比較されながらやはりここでも評価の違いが提示されてきます。彼らは自分たちの「事情」を明らかにすることによって、J-POPアイドルたちとの間で生じている差異を明白にしようとしていることがここから見ることができます。

だからJ-POPは劣っている、だからK-POPが勝っているということを指摘したいのではなく、さらに面白い現象として、J-POPアイドルはむしろそれをパロディ化することに長けているということです。そして、そのパロディ化が一体何を表現し、このK-POP現象を受け止めているのか考えていきたいと思います。そしてこの考察から、2人東方神起が全国ツアーで何度も行った「ビバルイ」がどのような意味をもつものだったのかを明らかにしたいと思います。

それでは、参ります。
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(こちらの動画はお借りしました。ありがとうございます。)

まずは、この考察を読み進めていただく前に、こちらの動画をご覧ください。

これは、少女時代としょうわ時代の映像の比較のために作成された動画であることが分かります。左側には少女時代の『Gee』のPVが配置され、右側にはSMAP×SMAPの1コーナーとして中居氏が老人の姿をしながら雰囲気を真似た『Gee』のPVであることが分かります。

この動画の特徴としてあげられるのは、まず対極の容姿であるにもかかわらず、限りなく少女時代に近いダンス/フォーメーションが行われているということです。まず、容姿についての比較を見ていきたいと思います。

1つ目に、少女時代と「しょうわ時代」と銘打っている通り、中居氏率いる年寄りの風貌と、整えられていない体格が目につきます。美脚を戦略の最前線に出している少女時代にとって、完璧な身体を持ってパフォーマンスをすることは彼女達に与えられた最重要の仕事であると言えます。そして、おしゃれなメイク、エネルギッシュなファッション、そして笑顔で踊り続け時にはおどける彼女達の『Gee』には溢れています。
しかし、「しょうわ時代」はそれを見事にぶちこわします。無表情で踊り、顔にはしみを描き、カラーシャツを同じように着ているのにも関わらず、その隙間から見えるのは全く鍛えられていないお腹。そして、同じダンスを踊っていても、そのダンスには少女時代のようなキレはなくむしろ「同じ動きはしているけれど」と言いたくなるような完成度。これだけを見れば、「少女時代を馬鹿にしている」と思うファンの方がいるのは間違いありません。実際、この動画には低評価が高評価を上回ってつけられています。

2つ目に、先ほどダンスにはキレがないと指摘しましたが、一方でそのダンスとフォーメーションは限りなく少女時代の『Gee』の世界観を模倣しています。ただ、キレがない。それはなぜでしょうか。率直に言えば、キレを出すトレーニングを積んでいないから模倣はできても少女時代になることはできていないと言えます。しかしさらに踏み込んで言えば、彼らは少女時代になることを目指しているわけではないので、模倣するぐらいでちょうど良いとも言えます。なぜなら「しょうわ時代」は、少女時代のパロディだからです。

ではここでパロディという言葉について考えていきたいと思います。このブログは論文ではないので、とりあえずWikiで調べてみたら「現代の慣用においては他の芸術作品を揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品、あるいはその手法のことを指す」(こちら)とされています。ここで注目したいのはやはり、「芸術作品を揶揄や風刺、批判する目的をもって模倣した作品、あるいはその手法」とされている部分です。では「しょうわ時代」は、少女時代の何をパロディしているのでしょうか。

それは、先にあげた2つであると言えます。少女時代の価値は何よりも、整えられたスタイルとその身体から繰り広げられるダンスにあるからです。つまり、この2つがなければ少女時代の「少女時代」は終焉を迎えることになります。皮肉なのは、彼女たちが歳をとり「少女」から遠ざかれば遠ざかるほど価値が減っていくということ。(急げ!急げ!少女たちの時間は駆け足で過ぎ去っていくぞ!)だから、モーニング娘。は娘ではなくなった時、そのステージから自ら降りなければならなかったとも言えるのではないでしょうか。ただし、モーニング娘。は入れ替え制で、いつでも「新鮮な娘」で枠組みを守ることができましたが、少女時代はさてどうでしょうか。SMEとしての戦略は、新少女時代はいつでも作れるということでした。つまり、現行少女時代は少女の価値がなくなった時にどうなるのでしょうか。

では次に、なぜ日本では「しょうわ時代」があり得てしまうのかについて見ていきたいと思います。この背景には、1980年代のフジテレビが打ち出した「面白くなくちゃテレビじゃない」というコンセプトが大きく関係していることは、稲増氏が指摘しています。稲増氏の指摘を見ていきたいと思います。

「80年代に黄金時代を築いたフジテレビがしてきたことは、従来のテレビを相対化し、「楽しくなければフジテレビじゃない」というキャッチフレーズに象徴されるように、表面上のエリート主義を脱ぎ捨て何でも楽しんでしまおうという快楽主義に居直ったことである。そして、番組的には、ニュースやスポーツさえもエンターテインメント化してしまい、まさに「バラエティ」という手法を一番組様式ではなく、テレビ制作の基本理念にまで高めてしまったのである」(稲増龍夫,2003.『パンドラのメディア——テレビは時代をどう変えたのか』筑摩書房.)

フジテレビは、面白さを出せてこそフジテレビたり得るという自局のありかたを前面に出すことで、自らを相対化させることに成功したと言えます。(なぜ、この時期にテレビ局自身が相対化する道を選んだのかということについては、1980年代のアイドルから改めて考えていきます。)それは、本来であればテレビ現場の「あり方」は受け手が感知することができない見えない世界=管理された世界、職人の世界であったにも関わらず、それらをNG集として1つの番組に仕立て上げ、見せてはいけないものを見せることで、新たな「面白さ」を受け手の目の前に提示することに成功しました。それは結果として、送り手と受け手の間で、完璧ではない世界がテレビを作る側には存在する現実を理解させ、一方でテレビが送り出す現実は一見キレイな部分だけを抜き出していることを了解させる「お約束」を共有させることになりました。その結果、稲増氏が「「テレビなんて、しょせんはその程度のもの」という、受け手のカジュアルなテレビ観が加速度的に定着していった」と指摘している通り、テレビは現実を映しているのだけれども、そこには作り手の意図が関与しており、受け手はそれを理解した上で楽しんでもらえなければ、「こっちだって困る」という送り手のアイロニーまでも了承させてしまったと言えます。

では、再び少女時代と「しょうわ時代」に戻ります。「しょうわ時代」が少女時代に向けるアイロニーとはまさに、完全体としてのアイドルはやがて朽ちていくものであり、だからこそその刹那的瞬間を楽しむことが受け手には求められていることを提示しながら、「完全体ではなくても、歳をとろうとも、スキャンダルがあろうとも、それでもSMAPは生き残り続けている」というメッセージが立ち上げられていることが見えてきます。センターを踊っている中居氏がじじぃの格好をしているのは、もちろん『Gee』とじじぃとをかけているものですが、日本で長年トップアイドルに君臨するアイドルグループのリーダーがそのようなパロディを行う振る舞いには、このようなJ-POPアイドルとK-POPアイドルとの決定的な差異を指摘しているものとして見なすことができます。そしてそれが行われているのは、フジテレビであることにも注目しなければなりません。つまり、フジテレビは韓流ごり押しをしているように見えることは間違いありませんが、その一方で「面白くなければフジテレビではない」を今でも行っているとも言えます。

このようなアイドル文化を持つ日本で、なぜ2人東方神起は「誠実」や「道義」という言説によって語られるのかについてさらに考えていきたいと思います。この背景を持つ日本の受け手であれば、これらの言説を用いること自体が「無知な受け手」であることを露呈していることに気がつくのですが、一方でそのような言説を用いる自分に酔いしれているとも言うことができます。つまり、無知な受け手としての振る舞いであることは分かっている「けれども」、無知な受け手であることをどこかで楽しんでいる。

論(17)では、歌番組には出演することができない/しない3人JYJが、なぜドラマ/ミュージカルに出演するのか考えていきたいと思います。

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というわけで、無事に大学院を卒業して参りました☆
来月にはまた大学院に入学しますけどもww