1月16日 王の報告(The King's Report) 亨進様 日本語部分訳 

 

セクション 1

 

今日の聖書   ピリピ人への手紙 1章3節ー11節

1:3 わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、 1:4 あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、 1:5 あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。 1:6 そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 1:7 わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。 1:8 わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。 1:9 わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、 1:10 それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、 1:11 イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。

 

なんと美しい聖句でしょうか。パウロがピリピ人の教会への祈りです。彼は非常に強い言明をしています。彼は9、10節で、”あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ”

 

愛は知識と識別で満ちています。愛は知識と識別で満ちなければなりません。相対主義者は、愛について、愛は境界がないとか、愛は人種がないとか、、言って推奨していますが、

彼ら自身が、人種差別者なのです。

世俗の文化、または相対主義文化では、あるものすべてを愛さなくてはなりません、と言う概念なのです。

 

しかし、聖書で言う愛(真の愛)は違います。聖書の語る愛は、愛は深い知識で満ちていることと、識別で満ちていることなのです。

愛は、善と悪とを見分けることができるのです。愛は、何が正しくて、何が間違っているを識別するのです。そして、愛には中心があります。

 

イエス様は、愛の中心は、最初の二つの戒め、”心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。”あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”といわれました。そして、愛には、中心点があるのです。神様と中心とするのです。それとキリストです。神様とキリストを中心とする為に、識別があり、知識があるのです。

 

愛は、無知ではだめなのです。無知なタイプの愛は存在しません。愛が、主体を持つので、神様に対する私たちの愛は、神を傷つけるようなことを憎むことを許されます。

私たちは、愛の対象なので、不義を憎むようになるのです。愛は正義だからです。不正にあえば、私たちは、痛みを感じるのです。 愛は知識と分別も持っているのです。

 

相対主義者は、いつも、なんでも相対化をしたがります。彼らは、我々を主体の神から離そうとします。彼らは中心を取り除こうとするのです。人にだけに、集中してたり、動物だけに、何かだけに集中しようとします。

それで、中心をもたなければ、愛が識別できないものに、なってしまいます。愛が無知になるのです。中心点を持たないので、何が正しく、何が間違っているのか、区別できなくなるのです。

 

もし、あなたが、本当に女性を愛していれば、あなたは、強姦を憎まなければなりません。

女性を傷つけるもの、乱暴、強姦するものを憎まなければなりません。

もし、あなたが、本当に子供達を愛しているなら、児童性愛者、子供を食い物にするもの等を憎まなければなりません。

 

私たちの愛には、識別があり、知識があります。これを理解することは簡単です。

相対主義では、哲学的に、愛の言葉の意味に一慣性がありません。西洋社会で、育てば、愛という言葉、すなわち相対主義者の愛、それは、皆さんの頭に即、思い浮かぶものが、彼らが、すでに植えつけているもの、世俗の価値の愛であり、ハリウッドとかで見られる相対的な愛なのです。

 

もし、あなたが神様を知り、愛していれば、神様に対する邪悪なものを憎むでしょう。神様が罪を持った我々に、罪から離れるように、罪を憎むようにしむくのです。しかし、それは、義務からでなく、恐れからでもなく、真の愛によって転じていくのです。

神様が創造した本来の私たちに引き戻してくれるのです

 

パウロは、ピリピ人とピリピの教会の為に祈りました。彼らが多くの知識と分別を感じることのできる真の愛をもてるように祈ったのです。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ にほんブログ村