封殺されている日本人の原始感情 | 闇夜の弾丸を舐めろ!

封殺されている日本人の原始感情

文化というのは、人間が持っている本能的というか、野性的な部分を抑制して、隠蔽したり、変形させたり、形式化して、原型が見えないように洗練させる事が多い。本能丸出しなら下品なんて言われちゃう。


でもね、日本でも人間本来が持つ原始的な形を全部否定しちゃうのも詰まらないので、わざとそういう部分を残したりする。


手羽先なんか食べる時、フォークとかナイフ使ったりしないでしょ。お握りだって素手で食うから美味いんであって、あんなのを箸を使って食べてたら、手は汚れないけど、お握りをそのまま握った時の触感が分からない。寿司になってくると、素手派と箸派に二分されるかも知れない。


にぎり寿司を素手で食べてもマナー違反じゃないし、野蛮とも思われない。むしろ、素手で食べるのがセオリーだ、みたいな職人も居るし。


まあ、この辺りが「文化」としての臨界点なのかも知れない。何でもかんでも決めちゃうと、教条主義になっちゃってマナーのためのマナーになってくる。


どのくらいの配分で野趣を残し、どこまでを隠蔽するかというのは、社会、国、民族なんかによって変わってくるし、その領域が文化と呼ばれる。


そこで考えたいのが、オーストラリアと日本の違い。どうもオーストラリアの方が「原始部分」を残している割合が多いと思う。


オーストラリア人は生の感情のうち、「喜」を封殺しないで、そのまま活かしている。一方、日本人はそういうのを封印してしまう。


子供の頃なんか、「ねーねー、さっきこんなに大きい犬が居たんだよ」と大きく手を広げていたのが、大人になるまでの過程で直接的感情表現が抑圧されていく。


辺り構わず「喜」の表現をしていたら、「うるさい」と言われ、「少し静かにしろ」と言われ、そうやって自分と周りを調整していくようになり、自分がなすべき役割を演じたりして、こうして教育を受けてくるんだね、日本人は。


で、感情表現の乏しい子供は、「おとなしいねー」と言われる大人の姿勢があったりする。


そのなれの果てが今の大人達で、例えばオリンピックの閉会式で、他の国の選手たちが浮かれて踊り、他国の選手たちと肩を組み合っているのに、日本人は列を乱さずに行進してたしさ。


最近のオリンピックの閉会式なんかは、日本人選手も自由に踊ったり、何も縛られないで楽しくやっている。というように見えるけど、本当のところは(あ、ああやってもいいんだ)、(へー、こういう時は踊るのかあ)という理性や「自由に踊って良いマナー」みたいなものによって、不自然に盛り上がっているだけで、何というか邪念に惑わされている感じ。


そんなのはピュアじゃないでしょ。ピュアじゃないから衝撃力がない。オリンピックの閉会式だけじゃなくて、パーティに行ってファンキーな曲がかかってきた時、自然に身体が踊るとか、街で恋人同士がキスするとか。


確かに、街で恋人同士がキスしている光景は日本にもあるけど、無理というか、汚れがある。ほとばしる情熱を抑えきれなくて思わずちゅ~~~♪ではなく、(俺は街ん中だろうが、電車だろうが、何処ででもキスする男だ)という自意識が透けて見えてしまう。


人の事を言ってるけど、俺だって同じ。子供の時の教育は抜けきらない。俺がオリンピックの閉会式に出て踊っても様にならないし、(あーあ、無理しちゃって)と思われるのがオチ。


まあ、オーストラリアに住んで、多少タガが外れてきたとは思うけど、心の奥底にあるタガにはロックがかかっているし、今後開錠される予定もない。


「そりゃいい質問だ」と言って、俺が人差し指立ててもおかしいもん。「マジで?」って言いながら、手の平上に向けて肩すくめたり。


日本で、そんな漫画とかコントでしか見ないような事をした日には(ああ、銀ちゃんも、ああいう西洋にかぶれたところがなきゃいい人間なのにねー)と言われる事請け合いだ。請け合ってどうする。


赤ん坊を見ていたら思わず顔が綻ぶでしょ?ああいう本来人間に備わっているオーラみたいなものをオーストラリア人とか、西洋人、韓国・中国以外のアジア人を持っているんだよなあ。


日本文化も悪くはないんだけど、何でもかんでも矯正するんじゃなくて、手を付けない野趣溢れる「お握り」みたいな文化をもっと残したらいいのになと思う次第。