おはようございます。
突然ですが、皆さんは「夜と霧」という映画はご覧になったことはありますか?
アウシュビッツ強制収容所が解放された後に内部の様子を撮影した記録映画なのですが、
私は初めて大学の講義でこの映画を観たとき、映像のあまりのインパクトに言葉を失いました。
そして、映画と同タイトルの、アウシュビッツを生き抜いた精神科医ヴィクトール・E・フランクルというひとの著書があるのですが、
ぱらぱらとページをめくっていると、折ってあるところとか、傍線が引いてあるところとか、今でも熱い感動を覚えます。(これもたしか大学生ぐらいの時に読んだな)
少し引用しますね。
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いにに答えを迫られている。考え込んだり、言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって・・・・
(池田香代子訳、みすず書房)
私は必要以上に苦しむことはないと考える人間ですが、では果たして苦しむことはまったくの無意味でしょうか?
また、人の苦しむ権利を奪うことはできるのでしょうか?人の苦しみを否定する権利が私たちにあるのでしょうか?
わたしはこれについてNOを申し上げたい。
フランクルの別の著書「それでも人生にイエスと言う」からまた少し引用しますね。
大きくいって二つの考え方の可能性があると思います。・・・つまりすべては結局まったく無意味だとも十分主張できます。
おなじように、
すべてに大きな意味があるばかりか、そのような全体の意味、そのような意味の全体がもはや捉えきれないほど、「世界は超意味をもつ」としかいえないほど意味があるのだというのも、同じく正当な主張です。
ただし、おなじく正当というのは、論理的におなじく正当、不当ということです。
(中略)
まったくの無意味か、すべてが有意味かという決断は、論理的に考えると、根拠がない決断です。
(山田邦男・松田美佳訳、春秋社)
論理的には根拠のない可能性とはつまり、
その人の信念をいうのではないでしょうか。
皆さんは、どの可能性を決断しますか?
長くなりましたので、この辺で終わりにしたいと思います。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。