こんにちは



今日は敬愛してやまない橋本治の

「貞女への道」(ちくま文庫)より引用を。。

ちょっと長いです。






だって、愛し合っている二人が相手を労わるとなったら、それは仮に相手の親の立場に立ってやるということと同じでしょう?人間誰だって、時には相手に守ってもらいたい保護されたいと思うことだってあるんだもの。そういうときに平気で親の立場に立てちゃうというのが、特別に親密な愛情、その愛情があるという関係というわけでしょう?誰だって、男も女も、相手の中に、一番信頼出来て、一番甘えられる"親"というものが見たいんですよ。だから、それがあるから、人間は平気で人の親になって行ける。夫婦であることは、互いに親であることの訓練でもあるんだと、私なんかは思いますけどね。

訓練という考えはほとんど絶望的にはやらなくなってしまいましたが、とっても重要なことです。


(中略)


体力のない内に無茶を公然と要求される、そのことがまず第一の悲劇と知ることは必要ですね。


今の若い人でなにが足りないかということは、もうはっきりしています。のびのびとした子供であることが足りないんです。「現実は子供っぽさの氾濫じゃないか」とおっしゃる人もあるかもしれませんが、しかし、それが異常だというのは、今の子供は、あまりにも子供の内から"子供っぽい大人"でありすぎるのです。


(中略)


だから、なにが無理かが分からないで、平気な無理をやってしまう。もうやめた方がいいですね。

子供は子供らしくというのは、とんでもなく大切なことだと思いますよ。

今からでも遅くない、無理なんだからやめちゃいなと、私なんかはいいたいぐらいです(もう言ってしまいましたが)。





親が子にとって「親」を見せてやれる家庭で育った子供は、

のびのびと子供をできて、その親が手本になりますよね。

けれどもそうでない家庭にそだったら、

それこそ↓


体力のない内に無茶を公然と要求される、そのことがまず第一の悲劇と知ることは必要ですね。


の世界です。



第一の悲劇はそこ。

じゃあ、第二の悲劇ってなんだろう?↓







餓えた腹を相手でみたそうとすることじゃないかな。


と私なんかは思います。



でもって、そういう餓えた人間に寄って来るのは、餓えた人間たちなんです、往々にして。

お互い相手をスポイルすることに熱心で、手を変え品を変え、ありとあらゆる奇妙なバランスの関係性の上でくるくる回ってるだけ。

これはもう餓鬼道の世界です。




満たされるわけがない。





でもそれじゃ、救いがないの?といわれればそれは違うと思う。





これを救いと言うのかは分からないけど、要は






自分の二本の脚で立つって決める







それだけじゃないかと。





どんなに腹が減ってても、

二人で半分こしたらいいんだ。



当然のことだけど、

これを救いと言っていいのかわからないけど、



それだけじゃないのかなぁ。