息子が思春期に入り大人になり、親が還暦を目の前にしているころ、人間もまた動物であり、異性との交わりがある20代から60歳になるまでの約40年が文字通り「花盛り」人生の一番素晴らしい時期だろう。

 

人生の約半分が🌸

 

小学生のころというのは女の子も男の子も身体的にかわりなく、髪の毛が長いか短いかくらいで判別しているものだが、中学生になるとお互い異性を意識し始め、高校生のころ異性と付き合い始めたり、初体験があったりする。その年齢は15‐16歳だろう。

 

オレも16歳の夏地元の旅館でアルバイトをしていたとき、そこではその時期毎年京都市内の方にある女子高の臨海学校で女の子ばかりが大食堂でご飯を食べる配膳をする重労働をやっていたときに、大勢の中には必ず好奇心の強い奴らがいて先生から禁止されている自動販売機のジュースを買ってきてほしいと交渉され、その機会に彼女らの自宅の電話番号をくれたのだった。

 

前半と後半の2グループの入れ替わりがあり、1グループに一人ずつ知り合えた。

 

その夏は最終的に一人の女の子に毎日電話をし実家に電話料金を払わせて迷惑をかけたものだった。携帯電話などない時代だったからだ。

 

夏休みだったので、その夏彼女に会いに行った。電話で了解済みだったが、泊まりを許された。

最初あちらのお母さんに内緒だったために窓から部屋に入れてくれようとして通りがかった人に泥棒か!と言って叱られたことなど今回のブログではこの件をたくさん書くつもりはないが、いずれもこの夏彼女の家で泊まり、後日彼女もうちの方へ遊びに来て初体験を済ませたのだった。

 

人間というのは勉強をして仕事をして生活力をつける。より男の方の生活力と男女お互いに魅かれることで一緒になる。

特に異性を惹きつけることを「モテる」というが、動物はみな異性を惹きつけようとして生命が輝く。異性を得ることは自分の分身である子孫を残そうとする本能だ。

男にとってのスポーツで活躍することも、歌や音楽ができて人気者になることも、お金儲けに精を出すことも、女性にモテたいという欲求が本音の部分であると言える。

 

アルバイトをきっかけに女性に知り合えたことの味を覚えたのか、当時はアルバイトニュースだとかいう求人雑誌で簡単に住み込みながら働けたので最初の彼女が住む町阪急高槻駅前のラウンジで働いてみた。

旅館のアルバイトと同じようにやはり女の子がたくさん働いていたので彼女らにも知り合え、このお店はサパータイムと呼ばれている時間が来ると男性を相手にする女性スタッフはみんなあがって朝方までわれわれホールスタッフが大勢で来るお客さんたちにサービスをする。

ホストクラブではないにしても夜の仕事が上がってくる女性客も多く大いに接客の勉強になった。

閉店はほぼ朝時間なのだが仕事でありながらまるで夜中遊んで朝寝るような生活になってしまう。そんなある朝寮であるアパートに他の同僚と帰ったときお客さんでもない女の子が遊びに来ていてその時に知りあった女の子が布団に入ってきたというトンデモ体験もあった。

あるときはお客さんである同い年くらいの女の子が、もう普通に彼女の家に泊まることになってとなりに弟が寝ているということもあった。

 

これよりずっとあとのことだが、当時日本にも外国人女性が働いているような場所があってその頃から白人系女性を知ることができた。

そんな経験が海外に住んでその現地の人々と暮らすことを頭に描き始めたのだと思う。

 

女性たちと映っている写真や彼女たちのことを書いた日記を大事に引き出しの中に持っているのは、自分が生存を認められたことを自信とするためではないかと自己分析してしまう。

 

20代でまずスペインそしてイタリアに住み始めて気がつけば31年になっている。

あの夏から40年が過ぎた。

 

住んでいる国、はじめた事業、オレはイタリアで日本のおかげでお金儲けして食べていけるようになれた。

30年前にはオレの父が考えていたことをオレが考え、息子はオレの38年前の歳であり、そうして受け継がれていくんだろう。

息子の年齢だった「花盛り」の入口を思い出しながら出口が見え始めたころ、いろいろ違う人生とはそれぞれの「花盛りの形」の違いではないだろうか、と自分に向き合って考えてみたのだった。