海外で生活をする前から私は子供のころから近畿の北の果てであってもテレビや訪れる人々からも関西の文化を見て育ち、思春期に東京も少し、京都、大阪、神戸などの主要な町には、アルバイトなどしながら少しずつ滞在をしてきたし、東京から西側の国内旅行にも恵まれいろんな町も観てきました。

そうして気に入った町が神戸でした。

 

16歳の時初めてつきあった女性が阪急京都線の人だったのがきっかけで、その後阪急沿線の居心地に魅かれ、京都、大阪、神戸のセットを関西の要と考え、大阪を中心に、日本の歴史を証明し千年以上日本の天皇のご住居だった古都、日本の伝統文化を今でも発信し続けることから、外国人にとって日本を知る地として貴重なのだと理解しました。

 

一方神戸に足を運んだ時、そこは日本ではない、という雰囲気を醸し出しており、日本でありながら海外とのつながりで生まれた町のように映りました。

それから88年の暮れには、ヨーロッパに滞在をはじめ、93年から94年の暮れまでやはり神戸でインポートの仕事をしてのち、ざっと2022年に神戸は六甲山の北側で家探しをするまでイタリアで仕事をし、家庭を持ち生活をしていました。

 

日本でそんな個性の強い町に住み、海外には人生の半分以上を過ごした後、再び日本に暮らしはじめて1か月間、過去を振り返りながら「日本人はなぜ西洋に憧れていたのか」を考えるようになりました。

 

海外、特にヨーロッパには日本人と言えば女性が多い。彼女らに言わせれば、ヨーロッパは女性が行くところだという。

マンガのことを語る、あるテレビ番組をYouTubeの動画でたまたま観てあることを発見しました。

マンガの中でも「少女漫画」というジャンルに登場する人物も、西洋人顔。そういうものを読んで育った人ほど、周りにいる普通の男性の西洋的な価値観で計るようになっていくのです。

だからこそ西洋人は、能力や中身の良さは関係なく、自動的にアジア人より上位に位置されてしまうのが世界基準になっています。

 

ところが、近年世界中の人々の移動が便利になり、情報が多くなり、異文化、異人種間の交流が盛んになると、それまで常識だとされていたような、または洗脳されていたような白人至上主義的価値観に疑いがもたれるようになったのだと思います。

 

大航海時代、キリスト教の布教、列強のアジア、アフリカの植民地政策、戦争での戦勝国の覇権、これらによっても、白人でない民族すべてが、自分はどれだけ白人に近いか。

そして戦争がもたらす世界とは、勝利者こそ正しく、彼らを中心に世界が動き出すので、敗戦した側のすべての価値観を否定されることがありがちなのです。

 

それはチーズが食べられる体質かどうか、ということさえも尺度にされてしまい、本来自分の健康のために何をどのようにどれだけ食べるべきか、を無視される傾向があります。

 

これからの世界は全く新しい価値観を生み出すことが生き残ることだと思います。