庭の植木の伐採しながら、なぜ「人口削減」という発想が起きるのかを空想してみた。

 

 
庭の植木が大きくなりすぎ街路が見えない状態になったので、思い切って伐採しスッキリしました。
枝や葉っぱを捨てる作業をしながら考え事をしていました。
もしかしたら私が多くなりすぎた木々を減らすように、この世界の支配者層は全世界で多くなりすぎた人口を削減して彼らが考える住みやすい地球にしてあげようという発想ではないかと思いました。
 

 

若き頃に体験した椎茸の袋詰め作業を連想し、流通の未来は悟ったのを思い出す。
 

 
私が海外に行く前若かりし頃、京都に料理屋さんに卸売りする乾物屋さんでアルバイトしたことがありました。
当時その会社は少数の正社員さんと学生アルバイトというメンバーでした。
ゼロからお店を立ち上げ三階建て鉄筋コンクリートの会社にまでした女社長に気に入られ高級住宅街の彼女の家に住み込みで働いていました。
京都中の飲食店への配達がアルバイトの主な仕事、会社の重役さんたちが営業を担当、周辺に住む奥様方は食品を加工したり包装したり、箱詰めするパートさん。
短い期間のうちこのすべてを体験させてくれました。特に私は人と話をするのが得意だったことから女社長のお兄さんで専務に営業の仕事を教えてもらえました。
 
伐採した植木の葉っぱと枝を分けて、ごみ袋を破らないように枝をつけずに葉っぱの部分を袋に入れながら、前途の乾物問屋でパートの奥さん方と椎茸を袋詰めする作業を手伝っていた時のことを思い出しました。
椎茸を重量分袋に入れたらいいのではなく、袋の外側から大きくてきれいな椎茸の傘のところを外に向けて、その内側になる部分には小さいもの、欠けたもの、きれいでないものを詰める。その手の込んだトリックを手作業でしかも手を早く動かすのが「商売やで」と教えられました。
 
若かりしその頃、日本でも世界でも当時の商業では常識だった「どう見えるか」のビジネスが近い将来終わってしまうのではないかという予知能力にような、ある種の虚しい感覚を感じたのでした。特に食品店で小売りして一般の人たちが買うのではなく、飲食店がそれを処理して料理になるのになぜ見た目にそんなに力を注ぐのかと考えたのです。
 
あれから世界は変わり、経済大国だった日本は大きく後退し、インターネットの登場でネット通販が安くて便利で本当に欲しいものが欲しい場所に運ばれてくるようになり、これまでのように競争相手はお店がある地区でも、その町でも、その国でさえもなくなって世界中に選択肢が広がっていくと、これまでのように店頭に並んでいる見かけがいいから高い値段に設定することができなくなったのです。
私があの時に感じた感覚は20年30年が過ぎて現実となりました。