どうして今の仕事をしているのか、自分史を書いてほしいと言われたのでチャレンジ。
長文なので、長いの苦手な人はスルーしてください。
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両親がちゃぶ台を挟んで向かい合っていた時の光景が、脳裏に焼き付いている。
父の隣には見知らぬ女性が座っていて、小さかった私は立ったまま、泣き崩れる母の肩辺りにつかまり、混乱し硬直して震え続けていた。
両親が離婚して数年後、見知らぬ男の人が目の前に現れ「ママと結婚してもいいかい?」と聞いてきた。
「ママを幸せにしてくれる?」ときくと「うん、幸せにするよ」と大きなピンクのくまのぬいぐるみをプレゼントしてくれた。
ピンクのくまちゃんは、この日からグレーに色が変わり、つるつるのお鼻も欠けてぼろぼろになって、泣き叫ぶ私の手を離れ廃棄処分になるまで、寝食を共にしていた。
いつも私の内面のイメージは、カラカラに乾いてしなびているのに、死ぬことは出来ない鉢植えのお花のようだった。
心が乾いて荒廃してゆき、散らかった内面をどのように整理すればいいのかわからず、次第に私の部屋は物に溢れて散らかってゆき、それを見ると養父は激高し「お前は汚い、お前は悪い」と殴られる日々になった。
手に入らないぬくもりや愛の感覚に餓えて、お金で何かを得ることでちっぽけな満足感を得られることを覚えた私は、身近な財布に手を出し始め、そしてそれらがバレる度に更に激しく折檻された。
夜に家の外に出され、謝りながら泣き続ける子供の声に駆けつけてくる大人は当時居なかったし、明るい日中に近所の養父方のおばあちゃんの家や警察にも行ってみたけれど「お父さんが怒るのならお前が悪いのだろう」と追い返された。
『泣いている子どもの側に、誰も居ないなんておかしい!私が大人になったら、泣いている人のそばにいてあげたい。辛いよ悲しいよ苦しいよと泣いている子どもを抱きしめて、ヨシヨシできる大人になりたい!』
家に居ることが何より苦痛で、誰か人がいる時はできるだけ息をひそめて音も立てず、ひっそりといないかのように振舞っていた。
その当時は家族団らんという感覚がなく、食事も黙って食べてサッと片付け、リビングにいる時には足をそろえて椅子に腰かけ、寝転んだり楽な姿勢で過ごすことはなかった。
女である私の価値はできるだけ良い条件の家に「嫁に行くこと」で、そこには私の個性も性格も感情も考慮されていなかった。
思春期になると男性恐怖症なのか、男性が近くを通るたびに全身悪寒が走り、血の気が引いていく感じが、ものすごく不思議に感じてた。
自分を大切にすることを知らず分からず、レイプされて家に引きこもり泣いていた時に「こんなことは世の中にはよくあることなのだから、泣いている方がおかしい」と怒鳴られ、「こんなおかしな家に居ることはもうできない」と私は高校時代から一人暮らしを始めた。
安全になると初めてそれまで抑え込んできたものが堰を切って流れだし、引き籠っていた暮らしから一見外交的な性質へと変貌した。
悪いことにも手を染め、怖い人たちとも平気で付き合い、華やかな生活、優しい人々、ちやほやしてくれる男の子たち、それでも私の内面の花は萎れたままだった。
28歳の時子宮筋腫を手術し、初めて「私は何かが歪んでいる、特に男性に対しての自分の態度にはすごく問題がある、私は私を癒したい」と初めて切に願った。
それから自分を癒す手段を探して色んなことにチャレンジし学んでみた。
当時は今ほど自己を癒すツールもスキルも情報もなく、キネシオロジーテクニックやヒプノセラピーなども取り入れ学び、セラピストとして施術もし、一時期よりは少し楽になれていたが、将来に対する漠然とした不安や、過去の悪夢で目が覚める日々から、不眠やノイローゼ、自律神経失調症などを定期的に繰り返し、自分の傷が癒やされた感覚には程遠かった。
必死に何かを探し求めて生きることにも疲れあきらめた頃、私は結婚しそして奇跡的にすぐに子供が授かった。
息子が生まれた時「この子が大人になって結婚して子どもが生まれ、そしてその子が大人になり結婚して子どもが生まれる頃には、世界が平和に幸せになれていたらいいな。その為に私は何でもしたい」そう思った。
しかし、愛しい子供を抱いていて、ふわふわと幸せな感覚の中にいてさえ、時折「このモミジのような小さなお手ての、指を切ったらどんな感じだろう?」と私の脳裏に狂気が走る瞬間を感じて、自分はまだ何一つ癒されていないのだということに気付いた。
このままでは、私自身が子供を虐待する親になる。
もしかしたらこの内なる狂気で殺してしまうかもしれない。
そう感じて、死に物狂いで自分を癒す方法を探しはじめ、行きついたのが「光の手」「癒しの光」の著者バーバラ・ブレナン女史のバーバラ・ブレナン・ヒーリング・カレッジだった。
1歳の乳飲み子がいて、アメリカの大学に通学しながら通うことに躊躇いがなかったわけではないが、子どもがいるからこそ自分を癒す必要を切に感じてた。
高額な授業料と渡米費や通訳費(結局4年間で一千万ほど)のあてが最初からあったわけではない。
ただ、自分がこうしたいと思い、そこにひたむきに向かっていく姿に、周りのみんなが譲歩し始め色んなサポートが来始めた。
実際のところ必要なサポートはお金という目に見えるものではなく、人の様々な援助の手だったり、宇宙や神からの贈り物(それは夫にでかい仕事が舞い込むとか)だった。
バーバラ・ブレナン・ヒーリング・カレッジで自分を癒してゆきたいという私の夢は大筋で叶えられることとなる。
少なくとも、その方法論や道程におけるヒントがたくさんあり、本当の自分と偽物の自分の違いや、本当の傷とはどういったもので、人はなぜ生まれてきて人生で何をするのか、夢が自分の傷のすぐ側に位置していることや、この世界の痛ましい出来事がどのようなきっかけで生成されてゆくのか、人生における自分が癒やすべきパターンは何なのか、ユニークな自分という個性によるギフトが世界にどのように関連し貢献しているのか(いい意味でも悪い意味でも)、私はたくさんの傷に直面しては学び癒して、少しづつ賢くなり強くなっていった。
私はバーバラ・ブレナン・ヒーリング・スクールが日本にも出来たらいいと願い、そこで学んでいるアウェイクニングの大元となるパスワークの学びにも深く傾倒していった。
パスワークにはチャネリングされた258の霊的気づきのレクチャーが存在し、ウェブサイト上で英語やスペイン語イタリア語と多国語に翻訳され閲覧できるのに、そこに日本語だけはなかった。
「私は日本を癒したい。その為に日本に本物の優秀なヒーラーがいっぱい増えたらいいのに!」そう切に願うようになっていった。
その為に、バーバラブレナンヒーリングスクールとパスワークを日本に呼び入れたいと祈っていた。
4年生になった時、授業中に男性のクラスメイトから完全な誤解から暴力を振るわれ、霊性の高い教師たちから更に冤罪をかぶせられ、私の一部が崩壊していった。
誤解から、暴力を受け、周りから理解もされず、手当もしてもらえず、私が壊れていくというパターンは霊性が高く周波数が高いところでも、いや高いからこそ現象化されたのだろう。
日本の持つ社会のいじめや男女差別や他者への無関心といった集合意識レベルの社会現象化でもあった。
先生と学校による誤解はすぐに証明して回復できたが、心の傷はトラウマからのPTSDという形で目に見えないベールがかかり、どれだけ自分を癒そうと頑張っても虐待の傷、一方的に暴力を振るわれ、私が悪くなるというパターンまでも癒すことはできないのかと絶望した。
PTSDが脳にどのような障害を生成するのか、目が見えなくなり、文章や人の言葉が理解できにくくなっていった。
卒論の為に、自分の頭で考えていることを言語化や文章化しようとしてもできなくて、歯がゆい思いに苦しんだ。
卒業はしたが私は次第に外へ出られなくなっていった。
夫には彼女が出来、体内ではまた子宮筋腫が大きくなっていった。
夫は私のカードで借金をし洋服を買うようになり、借金が200万位なったとき私は別居を決意し故郷の福岡へ戻った。
両親は娘が出戻ってきたことを近所に知られたくない一心で家には戻ってくるなと言われ、近くにアパートを借りた。
夫は離婚には応じてくれず、生活費は一切送らず、大きくなった筋腫から重度の貧血となり、PTSDから近くのスーパーに買い物にも行けなくなった。
病院に行きたくてもお金はなく、食べていくのに働こうとも体が全くついていけない状態だった。
近くに裕福な両親がいることで生活保護の申請も受け付けてもらえず、私は追いつめられた。
「もしも私という人間が本当にこの世界に必要なら、きっと必ずなんとかなる、切り抜けて生きてゆける」
そう信じて、私は今の自分にできること、「遠隔ヒーリング」をして日銭を稼ごうと決めた。
『神様、私を必要としている人がこの世界にいるならば、私とつなげて下さい』
毎日神様に祈っていると不思議なことに、幼い息子と二人質素に暮らしてゆくだけのお金は入ってきた。
子どもの栄養を考えて、時々豪勢な食事を食べさせたい時には、子どもだけ実家に預け、私は家で素うどんを食べた。
子宮筋腫もひどくなり、お風呂に入っていると一瞬で湯船は真っ赤に染まった。
PTSDは徐々にひどくなり、何でもない時でも突然フラッシュバックからのパニック発作に襲われて、キッチンで震えて泣き続けることもしばしばあった。
どんなに心やエネルギーの事が分かっていても、サイキックにいろんなことが出来ても、肉体レベルで訪れる発作や病気には手の打ちようがなかった。
今起こっていることが、目の前の現実に反応しているわけではなく、純粋に過去の記憶に引きずり戻されていると頭の片隅で理解はしていても、自分の身体の恐怖からの震えをどうにもコントロールできないのは辛い。
『もうこんな状態はたくさん!助けて神様!このPTSDをなんとかしたい!』
その時、神様に真剣に祈ったその瞬間、私の頭の中に映像が浮かんだ。
PTSDに対するヒーリングの脳の場所や手順がさーっと流れた直後に、私は震える身体で自分自身にそのままヒーリング始めた。
次第に震えが治まり、疲れて眠り、そして起きてもう一度自分にそのヒーリングをしてみた。
都合3回くらいで、それ以降フラッシュバックは起きていない。
肉体レベルで冷静さを取り戻せてから、離婚に向かっても話が進み、別居して1年半後に離婚が成立し、保険証を手に入れて子宮筋腫の手術ができた。
両親との関係性も、私が健全なバウンダリーを引き続けたことで変化して、緊張した親子関係から対等で居心地の良い関係へと変わっていった。
私はエネルギーレベルのバランスが整うと、肉体レベルや心や現実に対して望ましい変化が起こる事をどんどん学んでいった。
ガイドに教えてもらったヒーリングに脳とホルモンバランスヒーリングと名付け、その後様々な身体とこころの病気の人に通常のヒーリング方法にもうひと手間プラスしてみると、治癒が早まることと、その後の戻りがない(再発しない)ことなどが臨床データをとっていく中で明らかになっていった。
脳梗塞や心臓病、大動脈剥離や結核やがん、鬱やパニック障害、身体の怪我や骨折、様々な感染症などにもヒーリングは臨床の結果ものすごく有効だった。
私はヒーリングすることが好きだったし、難しいケースに出会うとどのようにそれをヒーリングしてゆけばいいのか追及してゆくことはワクワクした。
その内に、エネルギーヒーリングでどんなに綺麗にしても、現実と自分自身への理解がなければ、エネルギーの身体はすぐに壊れ元に戻り、繰り返し同じ個所を同じようにヒーリングしなければならないことに気付いた。
理解の為に1時間のセッションが講義で終わることも多くなり、世の中には偽物の自分が自己だと誤解して、それ故により一層ひどく苦しんでいる人たちで溢れていると知るようになっていった。
講義の為にヒーリングができないことは、それもまた私のしたいことが減じられるように感じてた時、バーバラ・ブレナン・ヒーリングスクールの日本校ができることになり、私はすごく喜んだ。
これで質の高い本物のヒーラーが日本にいっぱい増える!
そう喜んだのもつかの間、バーバラ・ブレナン・ヒーリングスクール日本校は、先生たちが空港で足止めされ送り返されたことで閉鎖となった。
私のアメリカのスーパーバイザーから、もう日本校ができることはないと聞かされ、すごくショックを受けた。
そして「あなたが日本人にヒーリングを教えなさい」と彼女は言った。
身体とこころとオーラの体験講座を教え始めて、もう5年になる。
私のつたない教え方についてきてくださる皆さんがいて、私はまた生徒さんに育てられている。
目に見えない心の分野が身体にどのように作用し、更にエネルギーレベルで私たちが日ごろどんなことをし、自分で自分の現実を創り続けているのか、伝え教えたいことは膨大にあり、一度では理解しきれないとリピーターしてくださる生徒さんのお蔭で、今の私がある。
ヒーリングとは、一口に伝えきれるものではない。
人生とは、生きるとは、そのすべてを理解することは大層難しいのだろう。
ただ、私に言えることは、人生に何度でも奇跡は訪れること。
癒えない傷はないということ。
ピンチはチャンスであり、そしてそこから自分が本当に行きたい道も繋がって伸びているということ。
運命は切り開いていける、宿命は受け入れて生きてけて、それらは決してつらく苦しいものばかりじゃないということ。
ヒーラーは自分を癒した所まで、人を癒せる。
私の夢は「日本に本物のヒーラーがもっと増えてほしい、そして泣いている子どもたちをその腕に抱き、この世界は美しく素敵なところなのだよと、希望と夢を信じることを伝えてほしい。」
私たちの為に、子どもたちの為に、日本の、地球の未来の為に、私たち一人一人ができることはまだいっぱいあるんだ。
☆5/10 人生が自然に且つ劇的に変容してゆく~感情のブロックを開放する心理プロセスグループ
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