自然から学ぶこと | 沈黙こそロゴスなり

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今日も寒いですね~(^^)
仕事納めという訳ではないですが、今日も朝から畑仕事をしてきました。

さて、自然と触れあっていると見えてくるものがあります。

それは、自然界というものは、利害関係だけで成り立っている、例えて言えばマフィアの世界なんだということです。
共存共栄、みんな仲良くなどという世界は存在しません。もしも自然界にそういうものを見いだそうとするのであれば、それは人間の思い上がりからくる幻想です。
自然界においての共存共栄関係は、利害が完全に一致した時以外あり得ません。
基本的に各生物にとって、利害関係(自分にとって全くの無害も含む)にない他の生物は排除すべき敵でしかないのです。

それは自分自身の肉体を見ても同じことです。人間の肉体は数兆に及ぶ無数の細胞の集合体です。その中で行われている生物的活動は自然界そのものと言えるでしょう。
体を構成している細胞は、各々が有用な働きをしていますが、中には、殺し屋のような役割を持っている細胞もあります。キラー細胞や好中球(白血球)などと呼ばれる細胞は、血液と一緒に絶えず身体中を巡回していて、外部から入ってくる細菌類などの異物をやっつけるのはもちろんのこと、病気になったり、傷ついたり、年老いた細胞を始末していく役割を持っています。
もし各細胞に意識があって、「おれはまだ働ける」と言っても、そんなのお構い無し。用済みになれば始末するのみです。ある意味、まったく容赦ありません。それを新陳代謝というわけですが、常に新しい若い細胞が肉体を構成しているように維持しているわけです。そうしてこの肉体は保たれているんですね。

自然界も同じで常に新陳代謝がなされ、そのための仁義なき戦いが起きている。そうやって、全体のバランスが保たれているのであり、そういう意味では、不要なもの、意味のない存在というのはあり得ないのです。


そして、この地上生物のなかでは、唯一、人間だけがこのことを客観的に見ることができる存在であるわけですね。

その上で私たちは、自分たちが自然界の中でどのようなポジションに在るのか、考えて行動することが大切なのではないかと思うのです。


簡単に言えば、この世界においては、良いとか悪いとかではなく、戦争があって当たり前だし、これも良いとか悪いとかではなく、人や動物を殺す人がいたり、自分の利害に合わない者を敵として排除したりする人がいて当たり前。一方では自分の愛する人を守ろうとする、そのために世界を良くしよう、愛で満たそうとする人もいて当たり前なんだということなのですね。

そして、人間である自分は、これらを自らのうちにすべて内包しているということ。
つまり単純に良いとか悪いとかいう判断でもって世界を見ると、見誤る可能性があるということなのです。

人間というのは、ある意味、天と地上を繋ぐ架け橋のような存在だと思うのです。他の動物と同じように自然界の営みの一部として生きながら、より高い次元から全体を見通して生きることができるのだということ。

そういう立場に在るということに気付いたとき、どのように生きることができるのかということが問われているのではないでしょうか。

そもそも善悪の判断というのは、ビジネス的な考え方で、ある一定の条件下における決まりごとに過ぎません。
条件が変われば、善悪の基準も変わってしまいます。つまりこれは不変の真理などではないということなのです。これが利害によるものだということは、そういう理由からです。

もしそうならば、私たちは、自分にとって直接的にせよ間接的にせよ、まったく害がないものについては、差別したり敵視したりする必要がまったくないわけで、それを誰かが言っていたとしても、しっかり調べた上で、それが単なる噂話なのだとしたら、受け入れる必要はありません。
しかし、どちらか判断がつかないときは、距離を置いて静観する方法もあるでしょうし、直感に従って行動してもよいでしょう。判断とはあくまでも自分にとっての利害に対してなんだということなのです。


そういった視点で世の中や、スピリチュアリティの世界を見ていくと、何が天の声で、何が地の声かということが明確に見えてきます。正しいとか正しくないとか、良いとか悪いとかではなく、この判断が含まれているメッセージというのは、間違いなくこの次元、この世界、そして人間の意識から発せられているものです。高次元からのメッセージには判断がありません。
スピリチュアルな世界というのは、ある意味、玉石混淆です。いろんな立場や存在やレベルからのメッセージで溢れています。真実もあればウソもあるでしょう。意図を持ったものや意図のないものもあるでしょう。

大切なことは、自分にとって、それらがどのような意味を持ってくるものなのか、そしてそれを常に念頭に置いておくということではないかと思うのです。