ゴールドラッシュでカリフォルニア州サンフランシスコの港が栄えたのは、金鉱労働者を中米から船で運んでいたためである。
そのため中米産コーヒーもカリフォルニア湾の港で大規模の船荷を受け取っていた。
そのほかジャワコーヒーも港に入港していた。
西海岸に端を発したセカンドウエーブ(グルメコーヒー)の基礎には、このような背景がある。
サンフランシスコにはコーヒーロースタリー、カフェエスプレッソ、ロスにはカフェフィガロ、コーヒービーン&ティーリーフの発祥地がある。、

 アメリカンコーヒー事情
 1952年ブラジルで霜害でコーヒー生産が落ち込み1953年57.90セント/ポンドであったが翌年には78.70セント/ポンドにまで価格が上昇した。
そのため、アメリカがブラジルコーヒーをボイコットした。
1953年アメリカが輸入したアラビカ種とインスタントコーヒー用のロブスタ種の比率は、アラビカ93%、ロブスタ7%であったが、ロブスタ種が年々増加して、1968年には30%を占めるまでになり、品質の低下を招き、結果的には1962年がアメリカでの一人当たりのコーヒーコーヒー消費量がピークで、その後消費が減少した。
 また、大手焙煎業者がコーヒー缶の価格を据え置いたが、中身を少なくしてもこれまでと同じ味であるとのキャンペーンをはった。
そして、重さを重視したため、焙煎を浅くした薄味のアメリカンコーヒーが一般的となった。
 1962年キューバ危機により、アメリカが中南米諸国の共産化を阻止するため、第一次国際コーヒー協定がアメリカ主体でヨーロッパ諸国が加盟締結された。
輸出割当制度は数量重視のため品質は軽視された。そのため品質のよい生豆が減少した。
1962年から1989年まで生産国は相場が安定したため品質はなおざりの傾向であった。
 また、アメリカ主導の裏には国際砂糖協定で強い発言権を持ったのキューバの影響力を減少するのが目的でもあった