私も若いころ、そこの大手事務所のタレントさんのファンでした。
彼は私の青春の、甘酸っぱい思い出の一部。
こちらの事務所のこの「噂」、思春期の私にはいろいろと深く考えさせられる噂だったんですよね。
だから思い入れがあります。
日本には昔から「男色」は認められています。
同性が好きになる人もいるし、人と変わったプレイが好きな人もいるし、
「本人たちが合意してるなら」と性的嗜好に関しては干渉せずにスルーしてたのが実情ではないでしょうか。
「夢をつかむために何かを捨てたわ」という詞が初期のモーニング娘。の歌詞にありますが、芸能界デビューをすると、人とは違う特別な存在「アイドル」「スター」、神格化された存在になるために、何らかのイニシエーションもしくは節目になる儀式があるのか。そして「何かを捨てる」というのは何を捨てたのか。
浜崎あゆみさんのドラマ「M」を見た限りでは、恋人と別れたのは「良い曲を作るため」でわざと別れたと「別れ」で生じるストレスを創作意欲に向けて、傑作を書かせようとするための試みとして恋人と別れたり、「恋人」を捨てて、インスピレーションを得ようとする、何かを犠牲にする。犠牲は恋愛というのが、戦略的選択?
彼らは何を捨てたのか。
「早熟なのは仕方ないけど、似たようなことだれでもしているのよ(少女A)」という歌があるくらいですから、性的な、性に関して早熟で、「その辺のことが、なんだかそうなのかも」と。
ジョンベネちゃん殺害事件ってありましたね。子供なのにフェロモンが出てるような色気があったと。色気をにじみ出している子供は性的虐待を受けていることが多いとか、言われてました。
子供なのに色気がある。
性的な体験をすると、幼くても「色気が出る?」。
私の親の世代の人たちは、子供が芸能人になりたい!といったら「だめー!」と強烈に反対したもんです。
傷物にされるからというのが理由でした。
すくなくともうちの親はそうでした。
私は子供のころ、やたら歌がうまかったので、本気でスター誕生のオーディションを受けて歌手になろうとしてたことがあります。
父は放送局にいて、歌手やタレントさんの枕営業の話をちょくちょく耳にしていたようで、平然と枕営業を行おうとするタレントさんがいて、局員に色仕掛けでせまっていたら、放送局に出入り禁止にしてたそうです。局員へは「枕営業を受けたら懲戒免職する!」とお達しを出して禁止してたそうです。枕営業をしてる歌手さんの方に、「こういうことは止めた方がいい」といっても、「好きででやってるんだからいいじゃないですか!」と逆切れされたこともあったそうです。
セックスを「遊び」として割り切れる人がこの世の中には、意外といるので、その人たちにとっては大きなお世話だっていうことなんでしょうね。
以上は60年代70年代の話です。
こちらはからは90年代の話になります。
とある大物芸能人、私の友人がデビューしたてで、まだ無名だったころ、ボッカチオの絵画を見ながら、「酒池肉林のような世の中にしたい。裸で酒を飲んでまぐわって」と公言してた人がいました。
私はいろんな人の話を聞くのが好きなので、「うわー!理解できない!」といいながら話を聞いていたのですが、「心を裸に、感情を赤裸々にむき出していくのが芸術家で、だから裸になるのも恥ずかしくない」といってました。「アマテラスが岩戸の影で裸で踊る。それが芸能のはじまりで、人の心をつかむ、太陽を岩戸から出すために裸になる。岩戸を開けるためならポルノ、性交もやる」という話でした。「じゃあ、私は芸能人になるの無理」と、小学生のころからずっと持っていた芸能界への憧れはスパッと消滅したのをおぼえています。
以降、私にとって芸能界は「そういう覚悟がある人が進むところ」で、私の居場所ではないと考えるようになりました。
ただ「天の岩戸をあける仕事」というのは理解できたので、芸術論になると、岡本太郎の「明日への神話」だったり、オノヨーコが裸になってパフォーマンスをしたんだとか、芸能人と芸術家の違いはどこにあるのかという話もさんざんして、芸術家より芸能人が下だってことはないという話や、芸能界にいるからといって、全員が同じ考えをしてるわけではないということも分かったし。裸になるのも、「天の岩戸をあける仕事」なら成立するのかなあと思ったり。
だけど、この理論、意表をつくことをして社会に悪影響を与えても、「天の岩戸を開ける仕事です!」と言い訳すれば悪ふざけもOKだと思ってないか?という懸念もあります。
そういうこともあって、いつしかテレビをみなくなって、私は映画やライブしか見なくなりました。
天の岩戸を開けるのが、芸能のはじまり。
とんでもないことをすることは「正義」。
とんでもないことをするのが「祭り」。
例えば花火。
花火なんて爆音の上に火を使いますから、命がけで、とんでもないお祭りです。
花火や祭りは夜8時で終了です。
常識でいうと、直径500メートルにもなる花火なんて(玉は1メートル近い)のを何百発も火をつけて空にぶっ放すとか、環境問題を考えると「環境汚染!」で一切中止になるし、沖縄のエイサーも、夜大太鼓をどんどん打ち鳴らしながら、住宅街を練り歩くのですから、「非常識」といえば非常識です。
だけど祭りは必要。
祭りなら許される。
【祭りとは?】
「祭り」は熱狂。
非常識なことをどのタイミングでやるか。
長く年月をかけて話し合われて、普通に考えたら無茶なことでも、「祭りなんだからOKに」というルールができてるから、祭りが続いてるわけで。
エイサーもそうです。お盆の最終日にムラの中を太鼓を叩いてドンドン、大きな音を立てて回ります。
新盆の家の前ではエイサー隊が立ち止まってドンドコ、ドンドコ!太鼓を叩いてまわります。
身内を亡くしたことのある方ならわかると思いますが、「親しい人を亡くしたばかりの人」とても憔悴して落ち込んでいます。
(いっそのこと私もあの世に一緒に連れていってほしい)とげっそりして、泣き暮らし、生気を亡くしてる人もいます。
そんな状態の人に、大太鼓の太鼓の音を目の前でドンドン聞かせるとどうなると思います?
「あの世の人とお別れして、この世でがんばらなきゃ!」という気持ちになるんです。
気持ちがあの世についていこうとしてる人を「しっかりしろ!」とほっぺたをピシピシ叩くわけにいかないけれど、しっかりしろ!」と体を揺さぶることはできないけれども、太鼓の音でその悲しんでいる人の脳髄に響くような太鼓の音を、ドンドンと振動させて、エイサーの音をその人の体の芯から響き渡らせることはできるんです。脳髄を刺激して、「こっちに戻ってこい!」とドンドン叩く。
「あの世にひっぱられるな!」という思いで叩く。
これやられるとわかりますけど、涙がたくさん出てきて、「ああ、今この世にいる人たちとがんばって生きていこう」っていう気持ちになるんです。
私の知ってる「祭り」はやっぱり、魂をよびもどす儀式です。
【で、性的虐待は祭りなのか?】
といったら、やっぱり違うと思います。
人とは違う「特別な存在」になるための儀式でもなく、ただの性犯罪。
性犯罪は被害者は自殺してしまうことがあったり、メンタルを病んで、一生立ち直れないことがあるからNG案件であると言い切ってよいと思います。
今回の大手芸能事務所の性的虐待問題は、本人が望んでないのに性的な行為を権力者が行っていたという「パワハラ」「セクハラ」問題で、性的傾向や早熟さは個人差なので、それは問題ではない。
今回の件は、事務所代表による性的虐待が、その芸能事務所では一般人がスターになるための「イニシエーション」としてみなされていた、教義ではないけれど、それを通過儀礼の一つであるかのように未成年を洗脳していた、カルト宗教的な団体になっていったという認識でいいんじゃないかと思います。
「性的虐待」を合意して受け入れれば「神的存在になれる」のなら、望む人も出てくるでしょうし。
この辺になると、カルト宗教の考え方で、教義です。
カルト的な偏った思想の植え込みというのは、どこの組織でも日常的に行われていると思います。
私はつい最近、とある組織を脱退しましたが、「世間のルールとは全く関係のない、カルト団体特有の内部の序列付け」や「世間では認められていることなのに、それはここでは言ってはいけない不条理」等々、狭いコミュニティの中の「狂った常識を押し付け」が続いたので、「これ変ですよ」と話をして、退会しました。
でもカルト団体作りを必死でやってるのは、その小さな小さなコミュニティの中でマウントをとろうとしてる人たちで、実際は世間の評価とは全く、関係ないんですよね。例えばママカーストとか。