2014年1月28日(火)

◆第1回 ・「強いきずなで結ばれた戦犯仲間を持てたことが何より良かった」と元死刑囚の宮本さん

 1953年7月22日、フィリピンでBC級戦犯裁判にかけられた旧日本軍将兵108人を乗せた白山丸が横浜港に到着した。米軍に投降後、戦犯裁判を経てニュービリビッド(モンテンルパ)刑務所で受刑生活を送り、キリノ大統領(当時)の恩赦で釈放、あるいは終身刑に減刑され帰国したのだ。対日感情が依然厳しく、日比両国に国交がまだなかった時代、マニラ市街戦で妻子4人を日本兵に殺された大統領が出した恩赦令。日本社会は戦犯らを熱狂的に出迎え、渡辺はま子の「あゝモンテンルパの夜は更けて」の歌入りオルゴールが大統領の琴線に触れ、恩赦に結びついたとのエピソードも生まれた。当事者だった元戦犯や助命嘆願運動に打ち込んだ日本人画家の遺族、フィリピン政府関係者の遺族らにインタビューし、BC級裁判の実相を4回シリーズで紹介する。

 ▽憲兵隊学校へ

 天橋立に近い京都府与謝野町。丹後ちりめんの産地として知られるこの町に住む宮本(旧姓・中西)正二さん(92)は、フィリピンで裁かれた元死刑囚だった。最近、腰を痛めたという宮本さんだが、声には張りがあった。「戦時中、マニラのイントラムロスにあった憲兵隊学校で1年間勉強し、郊外のサンタメサでタガログ語も勉強しました」と懐かしそうに話し出した。

 20歳で、中部第37部隊第1機関銃中隊(京都市伏見区)に入隊した。1942年5月にルソン島リンガエン湾に上陸。その後、現在のケソン州ルセナやリサール州アンティポロに駐留した。上官の勧めもあり、試験を受けてマニラ比島憲兵隊に入隊した。45年1月にマニラからルソン地方北部へ撤退し、9月15日にイフガオ州キアガン町で投降した。

 ▽容疑者キャンプ

 投降後、まずラウニオン州サンフェルナンドにあった捕虜収容所に収容され、そこから列車でマニラに送られた。途中、沿道でフィリピン人から「バカヤロー」など罵声(ばせい)を浴び、石を投げつけられたという。

 宮本さんはBC級裁判の容疑者キャンプに入っていたとき、米軍マニラ裁判で裁かれた戦犯死刑囚たちが隣の既決囚キャンプから処刑場に送られるのを見送った。「皆さん立派な態度でした。でも、残される者としては銃殺刑が嫌でした。銃声がどうしても耳に入るんです」

 ▽戦犯裁判

 1947年8月、米軍から引き継いだフィリピン政府のBC級戦犯裁判が始まる。裁判は49年末まで続き、151人の被告に対し審理が行われ、死刑79人を含む有罪判決137人という厳しい結果だった。

 宮本さんはアンティポロで10人ほどの住民がゲリラ掃討の日本兵らに殺された事件の容疑者として裁かれた。フィリピン軍関係者の弁護士が付き、真剣に弁護してくれたが、証人の確保に苦労する。原隊が後にレイテ島に送られ、上官を含め全滅したからだ。宮本さんは戦犯裁判について「起訴状の内容がそのまま判決になるんですから、一種のセレモニーですよ。検察側の証人の中には、私が当時、残飯をあげた15歳くらいの少年もいましたが、誰も私の住民虐殺への関与を完全に証明できませんでした」と説明する。

 ▽モンテンルパ刑務所

 48年8月に絞首刑判決を受けた宮本さんは、モンテンルパ刑務所に移された。死刑囚の独房には3段ベッドがあり、3人一組の生活が始まる。隣の独房へも看守に声を掛ければ行けた。「卓球やマージャンもできました。ブニエ刑務所長は理解のある人で、一度、刑務所内で塩がなくなったときに、自宅にあった塩を日本人だけに分けてくれました」と宮本さん。

 比較的自由な拘留生活だったが、51年1月19日夜、中村秀一元陸軍大尉ら14人の絞首刑が行われる。近く減刑される、とうわさされていた死刑囚が含まれていたこともあり、衝撃が拡がった。宮本さんを含め、多くの戦犯が宗教に望みを託し、キリスト教の洗練を受けた。

 ▽大統領恩赦

 冷戦下という国際情勢や対日関係正常化、戦犯拘置費用の財政圧迫、日本の助命運動などを受け、キリノ大統領は苦渋の決断を迫られた。世論の動向を探るように、刑の軽い戦犯を徐々に釈放し、53年6月27日、死刑囚56人を終身刑に、終身、有期刑の49人を特赦・釈放する恩赦令を決定する。

 その後、100名余りの日本人戦犯は7月15日、処刑された仲間17人の遺骨とともに、日本政府が用意した白山丸に乗りマニラを後にする。宮本さんは「フィリピンの領海を航行している間は、当局から呼び戻されるのではないかとひやひやでした。台湾近くまで来てようやく落ち着きました」と当時の心境を吐露する。

 帰国後すぐ巣鴨刑務所に移送されたが、沿道では日の丸を振る大勢の国民に迎えられた。53年12月末、キリノ大統領は終身刑の戦犯も釈放する。「当時の経験は全部がマイナスではありません。いろいろ勉強になりましたし、何より全国に強いきずなで結ばれた戦犯仲間を持てたことは良かったと思います」と締めくくった。(澤田公伸)

◆第2回 ・ 助命嘆願から児童憲章へ 洋画家・加納莞蕾の軌跡

 大山を望む島根県・安来市。その中でも緑深い山里の広瀬町布部に瀟洒(しょうしゃ)な白壁を持つ美術館が立つ。備前焼のコレクションで知られる加納美術館。ここで、5月30日から9月30日まで、洋画家・加納莞蕾(1904~77年、本名・辰夫)の特別展示が行われている。戦前、地元で教師をしながら、独立美術協会の設立に関わり、戦中には従軍画家として中国戦線などで日本軍を描き続けた加納は、1949年から53年まで、画業を犠牲にして、フィリピンBC級戦犯裁判で死刑判決を受けた戦犯たちの助命嘆願に打ち込んだ。当時のキリノ大統領をはじめ、日比政府関係者やローマ教皇も含め200通近い嘆願書を送りつづけた洋画家の足跡を紹介する。

 ▽古瀬元少将との出会い

 戦後、松江地方海軍人事部に勤務した加納莞蕾は45年10月、フィリピンから復員した古瀬貴季元海軍少将と出会う。翌年1月に戦犯指名を受けて巣鴨プリズンに向かう元少将から「指導者として責任を感じている。戦犯裁判で裁かれても減刑運動などはしないでほしい」と頼まれる。

 古瀬少将は言葉どおり、49年3月開廷のBC級戦犯裁判で六つの訴因すべての有罪を認め、2日後に銃殺刑を宣告された。罪状は45年4月から5月にかけ現在のケソン州インファンタで起きた民間人152人虐殺事件の指導者としての責任だった。これを知った加納は助命嘆願をするため、当時5歳の娘、佳世子を連れて汽車で上京する。

 ▽大統領への嘆願書

 東京で厚生省や海軍の関係者に当たった後、知人の紹介で駐日フィリピン代表部のベルナベ・アフリカ公使の肖像画を描くことになる。それまでフィリピンとは無縁で、大統領の名前も知らなかったが、娘を連れて代表部に出入りするうち、嘆願書を直接、大統領宛に送ることを決意する。

 同美術館の館長を務める加納佳世子さん(68)は、「父がある日、代表部の女性秘書に『大統領に手紙を出すと罰せられるだろうか』と尋ねたら、彼女は『日本では、自分の思うことを言ったら、罰せられるのですか』と逆に聞かれたそうです。それで決心したのでしょう」と、当時を振り返る。

 ▽悲劇に寄り添う

 知人が英語に翻訳した大統領宛ての嘆願書は当初、古瀬少将の助命を請う内容だったが、そのうち戦犯全員の恩赦を求めるようになる。アフリカ公使の後任のメレンシオ公使から、キリノ大統領の妻子4人が日本兵に殺され、大統領自ら幼い末娘の遺骸を埋葬した話を聞く。

 「フィリピン国民にとり日本軍が女性や子供を虐殺したことが重大な問題で、その傷跡は消えないだろう」という公使の言葉を聞いた加納は、日本軍の加害の問題を深刻に受け止める。加納莞蕾を研究する三島房夫さんは、「大統領に宛てた4通目の嘆願書には『……閣下の手から残虐にも奪い取られた愛児の名において、赦し難きを許す。そんな奇跡が起きることを待ち望んでおります』と恩赦を求めています。しかし、莞蕾さんは日本人が罪の意識を十分持たず、反省しないまま赦免されることには、反対しています」と解説する。一方、加納の助命運動について、広島市立大学の永井均准教授は、「加納画伯はモンテンルパの戦犯と交流がなく、戦犯もその活動を知らなかった。メレンシオ大使などフィリピン人と直接交流し、彼らの言葉や戦争体験を受け止めながら展開した画伯の助命運動は、当時として極めてユニークな試みだった」と評価する。

 ▽「国際的な罪人」

 加納はキリノ大統領に38通の嘆願書を送った。大統領自らの返事は来なかったが、受領を確認する書面は返ってきた。53年7月、日本人戦犯105人に対し、大統領が恩赦令を出す。母国の土を踏む直前、白山丸の船内で横山静雄元中将が新聞記者のインタビューに次のように語っていたことは興味深い。「帰国を温かく迎えて下さる皆さんの気持ちは自然に出たのだろうが、よく考えると難しい問題だと思う。私たち自身は、日本の罪人だとは思っていない。ただ、国際的な罪人だと感じている。……(中略)……そっと静かに迎えて下さいと、それだけお願いしたい」

 ▽児童憲章への願い

 莞蕾は54年9月から2年半ほど布部村の村長を務めた。村議会に働きかけ「世界児童憲章」の早期実現を求める決議を採択し、島根県町村長会を経て、全国都道府県町村会でも満場一致で決議にこぎつけた。56年8月には、村長として布部村平和5宣言(自治、国際親善、世界連邦平和、原水爆禁止、世界児童憲章制定促進)も出している。

 佳世子さんは「父はかつて、メレンシオ公使とお互いに児童憲章の制定に努力することを誓い合いました。キリノ大統領の戦犯赦免を受け、永遠の平和を築くのは次の世代である子供たちだと考えていたのでしょう」と、父親の書簡を繰りながら教えてくれた。(澤田公伸・続く)