『病氣は警告』
治らない人は、『治して貰う事』ばかりを追い求めると云う。
全てはシグナルなのだ、と。
運命もまた、然りなのでは無いかなと思う。
例えば。
事前説明って有難いけれど、
何故か忘れ易いし自分に刻まれ無い。
同じ事でも、困って初めて聞き覚えると、
もう身体が勝手に動ける様になるものだ。
昨日“ク”と当たったミラーのお陰で、私は昨日、必死にミラーのサイズの把握に努める事が出来た。
自分の老化した脳力と能力にも直面してショックが重なったけれど、
其れを認める事で、有る意味成長出来るのでは無いかと思える。
不思議なものだ。あれだけのショックを受けたのに。
私が初めて公園で鉄棒遊びをしたのは、3歳だったそうだ。
その時母は、鉄棒で大車輪をする私を見て、ぶったまげたと今でも話す。
子供の頃から子供を産むまで、鉄棒の逆上がりも、出来なかった事が無かった。
だからできないということが、どういう事か、真剣に分からなかったのだ。
拒食時に、全てを早く失ったのかも知れない。
まあ遅かれ早かれ、脳力/能力は衰えるから、前倒しで知っただけか。
病氣も事件も事故も、
小さなものは、天からのプレゼントなのだな、と思う。
一つ一つと、そうやって向き合う。
そうすれば、マイナスが糧になる!!!
その時必要だった、意味の有る、私にとっての栄養なのだ。
排除したくなるもの。
其れが私の中で生きる。
アイツのせいと、主張だけで終わらないで、
やっかみだけを繰り返さないで、
どうして病氣になったのか
どうして失敗したのか
どうして私はイライラしているのか
少したって考える。
どうすれば回復するのか。
失敗しないようにするには、どうしたらいいのか。
何にいらいらしていて、じゃあ自分は、どうしたらいいのか。
全ては自分で引き受ける試みを。
自分にそういい、いざ出陣!!!