愛をどんなところに感じたらいいか? |  ZEPHYR

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― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

「そもそも愛って、どういうとこで感じたらいいの?」
その女性は私に尋ねた。

これは微妙な問題だ。
一人の女性が、男性との関係の中で、どういうところで愛を感じたらいいのか。
「愛」の定義の仕方にも関わってくるだろうし、人によってその答えは違ってくると思う。しかし、詰まるところ彼女が尋ねているのは、「自分が幸せになるために、その愛をどこで感じるようになることが賢明なのか」という意味合いだろう。

重要なテーマだし、長文になるのは確定的だし、また様々な人に読んでもらって考えてもらったらいい問題だと思うので、記事の形で、私なりに質問に答えたいと思う。

そもそも、愛に定義などはない。
というのが、私の「愛の定義」の一つの表現だ。こうするのが愛、それをしないのは愛ではないというような、一面的な見方は、かなり独断的だと思う。
人によって生き方も違う、背負っているものも違う、価値観も違う。
相手に尽くすことが自己の愛の表現だと感じ、満足する女性もいる。尽くされる女性の愛情表現を、愛どころか迷惑だと感じる男性もいる。逆にそうされて女性に愛情を感じる男性もいる。
愛の形は多様だ。
そう、まるで雪の結晶に一つとして同じ形がないように。
男女間の恋愛、自己愛、友愛、博愛、人類愛――。
博愛の精神で世のため人のために行動することに愛や喜びを感じる人もいるが、その人を「偽善者」呼ばわりする人もいる。
これらはすべて「見方」「感じ方」の問題でしかない。

つまり「愛とは思いやりだ」とか「愛とはセックスだ」とかいう定義は、その人なりの愛の感じ方に合わせて作られる観念でしかない。
男女の愛にしても、「優しい言葉や相手の気持ちを思いやる心がなければ、それは愛ではない」ということを言う人がいる。その人に言わせれば、「どういうところに愛を感じたらいいか」という質問に対する答えは非常に明確で、「相手の思いやり、優しさに愛を感じなさい」という、誠に学校教育的な解答が用意されるだろう。
うん。これはいい。実に単純明快。しかも、多くの人が納得しそうだ。
そういうところに愛を感じたら、何となく幸せになれそうだ。

などという解答は、私は用意するつもりはない。
そういう思いやり、優しさを示されても、それに感動できない、感応しない人もいるのだ。私はそういう人を何人も知っている。特に悪い人でもなく、普通に見える人でありながら、愛の不感症みたいになっている人が。
先ほどの学校教育的人物の意見では、「それはとても不幸なことね。でも、それはその人の生い立ちとか、これまでの人生の中で作られてきた、自己防衛の檻なのよ。勇気を持ってそれを取り払ってご覧なさい。きっと、ささやかなことにも喜びや愛を感じられるようになるわ」ということになろうか。
この人の意見は正しい。

しかし、実際にはそれで問題が解決することは少ない。
愛を示されても、愛を差し出されても、逆に冷めてしまったり、目に入らなかったり(それを愛と認識できない)、というすれ違いは、実に多い。
また些細な日常の中でこそ、無数の問題が起こっている。

たとえば、ひと昔前の日本のお父ちゃんたち。
高度成長期を支え、がむしゃらに働いてきたお父ちゃんたち(ふた昔前かな?)。
彼らは日常会話が少なくても、ぶっきらぼうでも、「愛しているよ」とか「大事に思っているよ」などの言葉がなくても、頑張って働いて稼いでくることが愛だと考えていた(非常にざっくりとした見方です!)。
そんなお父ちゃんたちが、やがて「家族を顧みない」「話相手になってくれない」などという糾弾を受けたとき、そのショックはいかばかりだったろうか。
彼なりに家族や妻の幸せを考えていたのに。

彼の仕事のがんばりに、愛を感じられる人だといいが、そうでないと彼の行為は人の認識の中で「無」の評価になってしまう危険がある(ざっくりした見方です)。
もちろん、彼は他の人にもわかりやすいやり方で愛を示せば良かった、という言い方はできるだろう。
しかし、そのような社会的な風潮もなく、習慣もなく、価値観もない彼に、そのような選択ができたろうか?

だが、彼に愛がなかったわけではない。


もう一つ、重要な問題がある。
よく「女性は子宮でものを考え、男は頭で考える」などという、きわめて乱暴な意見が聞かれる。しかし、これは人間の本質の一面を突いている部分がある。
特に女性には、肉体的宿命的に負わされている役目がある。
出産。子孫を生み出すという役目が。
人間とて、動物だ。本能の部分では、子供を産み、種を保存していこうとする欲求があると考えられる。
その重要任務を負わされている女性は、男性との付き合いにおいても、子宮で何かを感じるような部分があっても、これは生物学的にはまったくおかしくない。猫でさえ、自分と相性の合う相手を選んでいる(特にその選択権は、雌の方にあるように見受けられる)。

ただ、これは人間においては、想像以上の個人差がある。
人間はすでに本能に支配されて生きる動物ではなくなってきている。

ここで占星術に登場願う。
実は占星術的では、子宮で感じるタイプの女性というのは、ある程度判別できる。
いくつものパターンがあるのだが、典型的な例は、たとえば金星と冥王星が強い関係を結んでいる女性だ。
冥王星は関係を結んだ星の力、能力を極限まで使おうとする。
金星は愛情である。
したがって、そういう女性は愛情行動において、すぐに極限に達する可能性がある。
こういう女性は自身の愛情のポテンシャルが高いので、他人から示される愛情のサインが薄いと、愛されていないと感じる可能性がある。

世間的には十分、あるいはほどほどであっても。

逆に金星が土星と強い関係を持っている女性は(女性に限らないが)、愛情も常に抑制の利いたものになり、過度な愛情表現は取らない。経験の中で着実に、時間をかけて愛情を育てていこうとする。また愛情の温度が低い場合もある(この論理も、他の星の要素を除外しているので、ざっくりした見方ですから)。
こういう女性は、誠実で責任感ある男性の態度や言葉に愛を感じたりするようになる。

金星と海王星が関係を持つ女性の場合は、頭の中だけで妄想的に愛情が拡大していく傾向がある。夢想がちなのだ。またプラトニックラブや、逆に不倫などの不実な関係に落ちることもある。背景には海王星の、非日常的な夢の世界への誘いがあり、そうした男性の(まるで白馬の王子のような)甘い言葉やキスに強い愛を感じるようになる。

金星と天王星の場合、刺激を追い求めるようになる。天王星は変革の星だから、新規なもの、フレッシュな感覚に対するセンサーが働くようになるのだ。したがって、男性との関係も持続性が乏しくなる一方で、ハナからダメと分かっているような恋愛関係や、辛い悲恋を経験的に選択しやすい。自分の日常を打ち壊すような存在、言葉に愛情の燃焼を感じるのだから、当然、長続きや平穏な幸せというのも得にくい。

金星と火星が関係を持つと、ずばり性的な愛情交感に強い関心と磁力が働くようになる。男女の交流そのものに、具体的な愛を感じるのだ。

とまあ、こういうことを述べてくると、金星と天王星、金星と冥王星の関係が、一番厄介だということがおぼろげに理解されると思う。天王星の問題はひとまずおくとして、冥王星の方を取り上げたい。
冥王星は「死と再生の星」だから、金星と交感することによって、「死ぬほど好き」という感情が湧き上がってくる。こういう女性が、温度の低い交際相手と恋愛しようとすると、まったく物足りないことになってしまう。

私に「どういうとこで愛を感じたらいいの」と尋ねた女性は、まさにこの金星・冥王星タイプだ。
いや、こういうタイプの女性でなければ、この質問は出ないだろう。
冥王星に理屈は通じない。根源的根底的な衝動、エネルギーだけがある。そこに理由付けなどない。
だから分からないのだ。

ちなみに冥王星には、占星術上、「子宮」という意味がある。
頭ではないのだ。
理屈ではないのだ。
彼女にとって、愛は。

逆に、金星・土星コンビの女性には、愛とは現実的なもので、はっきりしている。日常的具体的にそれが提示されれば、それを確認するという行為で、いくらでもフィードバックして、愛を育てることが可能になる(問題はその水源が絶たれたとき)。
これはどちらかというと、頭で愛を認識できるタイプということになる。
こういうタイプの人が、ある意味、もっとも建設的な男女関係や世間的な良識を作っていくことになる。

しかし、冥王星タイプの女性の存在がそれで否定されるはずもない。
彼女はすでにそこに、そのように存在しているのだ。

冥王星タイプの愛情は、すべてかゼロかという選択肢しかない。
中間はない。
だから、相手にも自分と同じような極限の愛を望む。
極限の燃焼を求める。
そして理屈ではない。

「どういうところに愛情を感じたらいいの」
という彼女は、自分の感覚からすれば、これまで自分はろくに愛されていないように感じている。
だから自分の愛情の感じどころが違っているのではないかと考えた。
男から愛されていた。が、感じ方が違うので、愛されていないように思えてしまう。なら、感じ方を変えれば――? ということだ。

たしかに、その考え方もできる。
しかし、それで本人は満足できるのだろうか。

私には疑問だ。
自分を偽って、こういうところに愛があるんだと、頭で一生懸命考えて(本当は子宮で考える人なのに)、理解して、自分を納得させて、それで満足か?

違うだろう、と思う。
本当は、彼女は見えている。「好きだよ」とか「愛してる」とか言ってくる男性の打算や欲も。
しかし、誰も彼女ほど純度の高い愛情を持って接してはくれない。

では、彼女はずっと孤独なのか?

いや、そうではない。
こういう女性に対応するには、やはり冥王星タイプの男性しかない、ということになる。
つまるところ、これが真の相性の見方なのだ(男女の)。
冥王星の性質、本質を強く持つ男性なら、この女性の極限の愛に応えられることになる(論理的には)。
こういう男性は、世間的には少なくない。
ので、彼女がふさわしい相手を見つけることは、本当は確率論的にはそれほど困難ではない。

私は、彼女の純度の高い愛情のすばらしさを知っている。
だから、それを失って欲しくはない。
今、彼女はそれをもてあましているだけ。

どういうところに愛情を感じたらいいか。

私の答えは、どんなところでも好きなところに感じたらいい、だ。
なぜなら愛には制限も条件も、本当はないから。

人は皆、死んだら愛であり光になる。
それが本質。
とすれば、生きているものの中で、もっとも愛の本質に近いのは何か?

赤子だ。

赤ん坊の無邪気な笑い。

最強だ。

その子には条件も制限もない。
ただ、愛だ。
存在そのものが愛だ。