そんなものは無数にある |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

○○のために生きている ブログネタ:○○のために生きている 参加中
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「聖おにいさん」という、仏陀とイエスが東京の立川でルームシェアして地上バカンスをしているという設定の漫画で、第一話、イエスがコンビニから買ってきた缶ビールを空けて飲み、口の周りに泡をつけた仏陀が「ふうーっ」とため息をつきながら、
「この一杯のために苦行している」
とつぶやくシーンに爆笑したzephyrです。

基本、○○のために生きていないzephyrです。
要するに特定の何かのために生きているという実感や信念はありません。
しかし、生きていて良かったとか、生きていることの喜びは、非常に多く感じます。

「へー。あんただったら、妻や子のために生きているっていうのかと思った」
と、思われる方もいらっしゃるかな。
残念ながら、それはありません。
私は自分の喜びとする人生を生きているのであって、その中に妻や子は大きな存在としてあります(プラス、血のつながらない娘2や娘3も)。

ただ。
過去において、「妻や子のために死ななかった」というのはあります。
しかし、それはきわめて限定された条件の中で生じた選択であって、そのときのもっとも大きな動機が妻子にあったということに過ぎません。
そういう逆説的な意味では、妻子のために生きたということは言えるのでしょう。

けれど、「生」というのはトータルな意味では、もっと大きな広がりを持つものではないでしょうか。
つながり合った人。
隣に存在する人。
その向こうにいる、手を伸ばせば届く人。
手は届かないけれど、見えている人。
そして見えてもいないけれど、互いに到着するのを待っている人。
そのすべてが自分というパズルのピースにぴったりと寄り添う形で、無数に広がって大きな絵を作っている。

私の帰りをいつも待っている妻。
私がいるとそれだけで喜ぶ子供たち。
彼らは私の人生のもっとも大事な宝であり、彼らのためにこそ働いています。
そう、働いている、といういい方は可能です。
でも、生きているということはもっと違った意味があると思うし、自分にとってはぜんぜん違った実感を伴っています。

昨日も占星術鑑定で、何人かの人にお会いしてきました。
彼らに示すことができた運命と未来を、彼らが驚きを持って受け入れ、よりよき人生の扉を開けてくれたなら、それは私にとって喜びだし、「生きていて良かった」と実感する瞬間になるでしょう。
昨年は私が何らかの形で関わった人が何人か結婚し、出産もありました。
「こういうときのためにも生きている」という実感を得ます。

小説を満足の行く形で脱稿した瞬間。
「このためにも生きている」と実感します。
昨日はゲラをイベント会社に届けてきたのですが、担当者が編集校正者の言葉を伝えてきました。
「校正の方も、最初は仕事を忘れて読むほど面白かったといわれてました」
作者冥利に尽きる言葉です。

なにか苦しみ、悲しんでいる人がいて、その人のために多少なりとも自分が何かできたと実感するとき。
「自分が生きている意味があったな」と感じます。

そしてもちろん、毎日、夜遅く帰宅する私の帰りを待つ家族の顔を見るとき。
風呂から出てビールを飲むとき。
妻のおいしいご飯を食べるとき。

そんな数々の日常に喜びを感じます。

○○のために?

それも尊い生き方もかも知れません。
何か一つのことにかけて生きるのも。

しかし、私はもうちょっと広い世界で生きていかねばならず、そのような選択をしているようです。
○○のために。
そんなものは無数にあるし、そのすべてのために私は生きています。

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